桃、真っ盛り。 車で走っていると、あっちにもこっちにも、「もも」ののぼりがはためいている。 果物王国の山梨県が近いので、夏は桃が食べ放題だ。 硬い桃、柔らかい桃、黄色い桃、大きい桃、小さい桃、ハネ桃、いろんな桃が楽しめる。 少し前に、歳上の友人が彼方へと旅立った。 出会ったのは、私がまだ二十代の前半で、社会人になったばかりの頃。 こんなに素敵な生き方をしている女性がいるんだと、目から鱗が落ちるような鮮烈な出会いだった。 以来、彼女はずーっと私のお手本であり、憧れでもあった。 自由で、でもちゃんとしていて、人との距離感が絶妙だった。 彼女に対して、一度だって嫌な感情を抱いたことがない。 思えば、私が作家になるずっと前から、応援してくれていた。 元気がない時はご飯を作って食べさせてくれたり、映画の試写会に連れて行ってくれたり、とにかくたくさんのことを教えてくれた。 親と言ってもいいほど歳は離れていたけど、常に「友人」だった。 物語が書きたいのになかなかその道が見出せず悶々としていた頃、自分の書いた文章をプリントアウトして彼女に読んでもらっていた。 今から思うと、かなり恥ずかしいのだけど。 そんなもの、渡された方だって困っただろうに。 でも、そんな幼い振る舞いも大らかに受け入れてくれる人だった。 そして、適切なアドバイスをくれた。 だから、『食堂かたつむり』の出版を誰よりも喜んでくれたし、その後も、ずっと応援し続けてくれた。 相手が大丈夫そうな時は遠くから見守り、何か助けが必要そうな時はサッと近づいて手を差し伸べてくれる、常にそういう感じだった。 彼女が亡くなった日の朝、里の友人がわざわざ山小屋までそのことを知らせに来てくれた。 とてもとてもきれいな青空の日で、彼女の旅立ちに相応しかった。 最後の方、体は相当ダメージを受けていたはずだけれど、最後の最後まで彼女の魂は健やかなままで、それが本当に素晴らしいと思った。 あんなふうに人生を終えられる人は、なかなかいないだろう。 共に彼女にお世話になった同い年の友人ふたりと涙して、でもそれ以上にたくさん笑って、彼女を見送った。 私の山小屋にあるベンチも、ソーイングテーブルも、デスクも、彼女から譲り受けたものだ。 ものすごくセンスが良くて、かっこよくて、今でも私のお手本だ。 私は、本当に多大な影響を受けている。 もう会えないんだ、と思うともちろん悲しいけれど、それ以上に出会えたことが喜びだし、心の中には感謝の気持ちがあふれている。 その日は、友人と、近くの滝壺に行って、桃を冷やして食べた。 心の中で、彼女の名前を呼びながら。 だから、桃を食べるたびに、亡くなった友人のことを思い出す。 桃は、そのまま食べる以外にも、サラダにしたり、パスタにしたり、コンポートにしたり、ジャムにしたりといろんな食べ方があるけど、最近のお気に入りは、近くのおいしい湧き水を寒天にして、それとあんこと桃と一緒にし、あんみつ風にしていただく食べ方だ。 これだと、食欲のない暑い日でも、スイスイ食べられる。 今日は、どのタイミングでどこでどうやって桃を食べようか。 毎朝、そのことを考えるのが密かな楽しみになっている。 この夏は、一日一桃と決めているのだ。 桃を食べる私の横に、彼女がいるような気がする。 いや、きっといる。 そして、空を見上げながらタバコをふかしている。…