Afterwards

『ライオンのおやつ』

『ライオンのおやつ』

母に癌が見つかり、数年ぶりに電話で話した時、母はわたしに、「死ぬのが怖い」と言った。 それが、この物語を書くきっかけとなった。 わたし自身は、自分が死ぬことに対しての恐怖を感じたことがなかったので、その反応に驚いたのだ。 死には、主観的な死と、客観的な死のふたつがある。 前者は怖くないけれど、もちろんわたしだって、家族や友人の死は、想像するだけで足が震えそうになる。 今回書こうと思ったのは、自分自身が死に向かう、主観的な死の方だ。 もちろん、わたしもまだ死んだことがないから、想像することしかできない。 実際に死んで、死とは何かがわたしの中で明らかになった時、わたしはもうそれを言葉にすることができない。 そのことを、とても残念に思う。 わたしは、自分が死んだ後にどんな世界を見られるのかワクワクしているけれど、多くの人は、母と同じように、死に対して、漠然とした不安を抱いているのだろう。 ならば、死が怖くなくなるような物語を書いてみようと思ったのだ。 母の死には間に合わなかったけれど、母が、わたしの背中を押し、この物語へと導いてくれた。 価値観の全く異なる母とは、子どもの頃から犬猿の仲だった。 多くの時間を、不毛な闘いに費やし、お互いに傷つけ合い、くたびれ果てた。 けれど、それによってわたしの芯は叩き上げられ、わたしは、物語を書くようになった。 現実逃避の手段として書き始めた物語だったけれど、そこにわたしは、希望や光、生きる喜びを見出した。 母に余命が宣告されたことで、わたしの、母に対する立ち位置が変わった。 今まで見ていた方向から反対側に移動して母を見ると、そこには、わたしが全く気づかなかった母の姿があった。 認知症が出始めた母を、わたしは初めて、愛おしいと感じた。 そして、自分が母を本当は好きだったこと、母もわたしを、母なりの愛情を持って接してくれていたことに気づいた。 母が亡くなったことで、わたしはようやく、それまでずっと繋がっていたへその緒が切れたように感じ、そして母が新たに、わたしの胎内に宿ったような気がした。 母が生きている頃より、亡くなってからの方が、ずっと母を身近に感じる。 こんなふうに、死というものは、時に、それまでの関係性をくるっとひっくり返してしまうような、魔法を秘めた人生の切り札になるうると実感した。 この物語を書くにあたって、量子力学に関する本を、たくさん読んだ。 命の誕生、死、宇宙。 難しくてわからないなりに、そこには真実があるような予感がした。 執筆中、母に続いて、父と、そして友人のミユスタシアが、人生を終えて旅だった。 ミユスタシアとも、よく、死んだらどうなるんだろう、という話をして盛り上がっていた。 だからわたしは、この物語を、父と、母と、ミユスタシアに捧げたいと思う。 死がテーマの物語ではあるけれど、重く、悲しいお話にはしたくなかった。 人は、いつか必ず死ぬ。 だからこそ、今この瞬間瞬間を、大切に生きる。 この物語を通して、生きていることの喜びや愛おしさが表現できていたら、とても嬉しい。 ポプラ社の吉田元子さんには、六年ぶりに新しい作品を担当していただいた。 二人三脚の相手が吉田さんだったら、この物語を最後まで書けると思った。 『食堂かたつむり』のデビューから十一年。 その間、ずっと書き続けてこられたのは、ひとえに吉田さんが、時に間近で、時に遠くから、励まし、見守ってくださったから。 そして吉田さんだけでなく、これまでのわたしの担当をしてくださったすべての編集者のおかげで、この物語が書けたのだと思っている。 あれからもう十一年が経ったなんて信じられないけれど、これまでわたしの本を読んでくださったすべての読者の方に、心からの感謝を申し上げます。 温かく見守ってくださり、本当に、本当に、ありがとうございます。…

『キラキラ共和国』

『キラキラ共和国』

前作、『ツバキ文具店』を刊行してから、本当にたくさんのお手紙をいただいた。 これまでも読者の方からのお手紙や読者カードはいただいていたけれど、数としては、圧倒的に多かった。 多かったし、内容も濃かった。 私はその方を直接は存じあげないけれど、便箋の選び方や筆跡、言葉遣いから、その方の人となりを想像する。 手紙はまるでその人の分身みたいで、お会いしたことはないのに、なんとなくうっすらとその人の輪郭や佇まいが見えそうになる。 中には、ポッポちゃんにこんな手紙を代書してほしいという依頼や、本当にこんなことが現実に起こるんだ、とこちらが驚かされるような人生の一大事について告白してくださる方もいた。 手紙を書くという行為は、相手に何かを伝えるという意味もあるけれど、自分自身の心を鏡に写すようなものでもあるのだな、とたくさんいただいた手紙を読みながら思った。 落ち着いて手紙を書くことによって、自分の心と対話し、自分が今、何を考えて感じているのかを知ることができる。 私にとっても、物語は読者の方に向けて書いた、長い長い手紙のようなもの。 その手紙を受け取った相手から、更に返事をいただくというのは、書き手としてこの上ない幸せだった。 その中でとても多かったのが、続編を書いてほしい、という声。 今まで私は、そういうことをしたことがない。 物語は、一冊出たら、そこで完結する、と思っていた。 でも、こんなふうに読者の方とつながれて、自分自身が、すごく温かいものをいただき、この世界にまだ浸っていたいような気持ちになった。 それで、たまには続編という形で物語が続いていくのもいいかなぁ、と思い、『キラキラ共和国』を執筆した。 鳩子が、私自身の人生に寄り添い、時に手を取り、時に叱咤激励する相手になってくれたら、嬉しい。 私は、そういう心の友というか、人生の戦友みたいな存在を、求めていたのかもしれない。 先のことは、まだ何もわからないけれど。 心にキラキラを思い描くって、大事なことだなぁ、と実感する。 人生には、思いもよらぬ災いがいきなりふりかかってくることだって、ありえる。 自分のせいではないのにすべてを背負って苦しんだり、悲しみに打ちひしがれて涙を流したり、そんなつもりはないのに結果として相手を傷つけてしまったり、ままならないことがたくさんある。 でも、そういう真っ暗な状況にあっても、どんなに遠い場所からでも、明るい方へ顔を向けられるようでありたいと、私自身は思っている。 植物が、光を求めて芽を伸ばすみたいに。 そうして生きていれば、そんなに悪いことばかりが起こらないんじゃないかなーと、私は結構、楽観的に考えている。 今回も、幻冬舎の君和田麻子さんが、担当編集者として伴走してくださった。 字書きの萱谷恵子さん、画家のしゅんしゅんさんには、それぞれ字と絵をかいていただいた。 全く同じメンバーで仕事ができるというのもまた、続編ならでは。 一冊の本の陰には、多くの方と努力と愛情がある。 お世話になったすべての皆様、そして読者の方々、本当に、本当に、ありがとうございます。 ポッポちゃんやモリカゲさん、QPちゃんや男爵やバーバラ婦人が、まるで読者の方のご近所さんのごとく、身近な存在になれたらいい。 そして、本を閉じた時、「大丈夫だよ!」というちょっと能天気な明るい声が聞こえるような物語を、私はこれからも書いていきたい。 2017年11月 小川糸

『ミ・ト・ン』

『ミ・ト・ン』

白泉社の森下訓子さんから連絡をいただき、吉祥寺のカフェでお会いしたのは、三年前の秋だった。 ちょうどわが家に犬のゆりねがやってきた頃で、それまでずっとつきっきりのように子犬の面倒を見ていた私にとって、数時間家をあけるというのは、大きな冒険だった。ゆりねにとっては、初めてのお留守番である。 森下さんは、やけにのどかな編集者だった。手に、かわいらしいバスケットを持っている。バスケットを持って打ち合わせに現れる編集者を、私はそれまで知らなかった。 仕事で初対面の方にお会いする時はいつも緊張するけれど、森下さんは、なんとなくその緊張を和らげてくれる大らかな雰囲気をまとっていた。 ラトビアを舞台にしたお話を書きませんか? という依頼だった。 そして、「これが、ラトビアの手仕事によって作られたカゴです」と、私が気になっていたバスケットを見せてくれた。 それから、ラトビアの魅力を、たくさんたくさん話してくださった。 実は、森下さんの中で、ずっと以前から温めてくださっていた企画だという。 画は、平澤まりこさんが担当することに決まっているとのこと。 帰り道、私たちは、結構長い距離を並んで駅まで歩いた。 森下さんがおいしいパン屋さんなどを教えてくださり、世間話をしながら路地裏を散策し、八百屋さんで季節の野菜をたくさん買った。 その途中、森下さんは、「三年後くらいに本を出せたらいいんですよね」とさらりとおっしゃった。 その言葉が、私の胸にずしんと響いた。 だって、三年後に本を出しましょう、なんて提案する編集者は、まずいない。 たいていは、来年はどうですか? とか、せっかちな場合がほとんどだ。 その言葉で、森下さんへの信頼度が一気に増した。 その時、私にとってラトビアは全く未知の国だったけれど、森下さんのお話を聞いて、きっと好きになるに違いない、と確信した。 帰りのバスの中で、ふと頭に浮かんだのが、『ミ・ト・ン』というタイトルだった。 それから、年に一回くらいのペースで、森下さん、平澤さんと一緒に取材旅行でラトビアを訪ねた。 一回目は、青少年による歌と踊りの祭典を中心に、ラトガレ州まで足をのばし、二回目は本格的な夏至祭に参加した。 三回目は、ラトビアの首都リガで、年に一回必ず開かれる森の民芸市へ。 そして私は、その後プライベートでも一回、ラトビアを訪ねた。 ラトビアには、美しいものが、たくさんある。 形あるもの、ないもの、そこは宝の山だった。 美しい歌や踊り、民族衣装、黒パン、祭り、地味あふれる食卓、森と湖、自然崇拝。そこには、かつては日本にもあっただろうものも含まれている。 そして、その中でもっともラトビアを象徴しているものが、ミトンだった。 ミトンは手袋のことだが、ラトビア人にとってのミトンは、神さまが宿るともいうべき、特別な存在だ。 ラトビアはバルト三国のひとつで、長きにわたり、他国からの侵略と占領を受けてきたが、特に、旧ソ連による占領時代は長く、人々は本当に過酷な生活を強いられていた。 歌や踊り、民族衣装を着ることも禁止され、ひっそりと隠れるようにしなが生きざるをえなかった。 けれど、そんな占領時代も、ミトンだけは咎められなかったそうだ。ミトンなしでは、冬を越せないから。 それゆえ、ミトンには、ラトビアの精神が深く根付いている。 そんな歴史的な背景を織り交ぜながら、あるミトンを巡る、百年間にわたるお話を書くことにした。 平澤まりこさんは画で、私は言葉で、私たちが見た風景や感じたことを表現する。 結果的に、たしかにあれから三年後、物語が本という形で産声をあげた。 私は、この物語を書き進める間、自分が馬になって走る喜びを知ったように思う。 私の背中に読者を乗せて、読者がまだ見ぬ世界へと案内するのだ。 本を読んでいる間は、美しい景色を見て、心地よい風を感じて、幸せを味わってほしい。 『ミ・ト・ン』が、そんな作品になれることを夢見ている。

『ツバキ文具店』

『ツバキ文具店』

君和田さんとはじめてお会いした日のことは、今でも鮮明に覚えている。 以前わたしが所属していたアミューズという事務所の一室に、わたしたちは斜めに向かい合う形で座っていた。 君和田さんのほかに、あと2名、幻冬舎の編集の方がいらした。 当時、わたしは『食堂かたつむり』を出したばかり。だから、もう8年も前のことになる。 君和田さんの第一印象は、とても風通しのいい人。 薄い、カーテンのような感じの方だと思った。 君和田さんが座っていた席の後ろに窓があって、そこからたくさんの光が入っていたからかもしれない。 それから君和田さんとは、仕事で2回、いっしょにモンゴルへ行き、カナダにも行った。 日本各地も、ごいっしょした。 点数としては、これまででもっとも多くの本を作っていただいた編集者だ。 けれど、なかなか「長編小説」という形でのお仕事はごいっしょできずにいた。 よく、8年間も辛抱強く待ってくださったと、感謝している。 今回の物語の舞台は、鎌倉だ。 君和田さんの生まれ育った町であり、私の親友が住んいる町でもある。 3年ほど前、家の一部をリフォームすることになり、仮住まいの場所を探した。 その時、真っ先に思い浮かんだのが鎌倉だった。そしてわたしは数か月間、鎌倉の住民になった。 『ツバキ文具店』には、そのときに直接肌で感じた鎌倉の空気が、色濃く反映されている。 物語の主人公である鳩子(ポッポちゃん)は、文具店を営むかたわら、代書仕事を請け負っている。 依頼人に成り代わって、手紙を書く仕事だ。 手紙を題材にした物語を書きたいという思いは、かなり以前から抱いていた。 その物語が鎌倉の地に根をおろすことで、物語が少しずつ芽吹き、枝葉を広げていった。 この物語を最後まで書くにあたっては、何度も立ち止まっている。 書きはじめから書き終わりに至るまでは、ずいぶんと長く時間がかかった。 書けなくなったら筆を置き(実際にはパソコンで書いているけれど)、あせらず気長に物語が生まれるのをじーっと待った。 できあがった物語を読み返すと、それが全体に、たくさんの「ま」を作っているように感じる。 「ま」とは、人と人の間に流れる「ま」であり、時と時の間にふくらむ「ま」であったりする。 そういう「ま」が、人間関係にも暮らしの中にも必要であるように思う。 今回の物語の立役者は、なんといっても萱谷恵子さんだろう。 萱谷さんは、プロの字書きとして、映画などの美術作品を作るお仕事をされている。 本に収められた手紙は、すべて、萱谷さんおひとりが具現化してくださったもので、どの手紙を見ても、ため息が出る。 連載時より、毎回、すばらしい、本当にすばらしい手紙を書いてくださった。 そして、装画のしゅんしゅんさん。 以前から、わたしはしゅんしゅんさんの絵の大ファンだったのだが、今回、幸運にも、そのしゅんしゅんさんに、いくつか絵を描いていただくことができた。 萱谷さんもしゅんしゅんさんも、「まさにこんな感じ!」というわたしの頭の中のイメージを、それ以上に見事に表現してくださった。 本当に、本当に、ありがとうございます。 おふたりと、このような形でお仕事をごいっしょすることができ、心から幸せです。 今は、メールなどで、簡単に要件を伝えることができる。 けれど手紙は、便箋や封筒を選び、筆記具を選び、相手や自分の住所を書いて、切手を貼って、自らポストに投函し、それが人から人へと手渡しされて、相手の郵便受けまでたどり着く。 メールから較べたら、非効率的であり、不経済だ。 けれど、もし手紙の文化が廃れてしまったら、ちょっと物足りないというか、もったいないというか、寂しいように思う。…

『にじいろガーデン』

『にじいろガーデン』

私が物心ついて最初に味わったのは、理不尽さだった。 どうして自分はこの家に生まれたのか。そのことを、幼い頃からずっと考えていた。 家族だから、血がつながっているから、分かり合えるし、愛し合える。 それが、そもそも幻想にすぎないのではないかということに、私はかなり早くから気づいていた。 血に寄りかかり、甘えてしまうと、悲劇が起きる。 私は決して、天真爛漫な少女時代など過ごしていない。実際はむしろ、その真逆だった。 そんな現実が背景にあってか、気がつくと私は、多かれ少なかれ作品の中でも家族というものを描くようになっていた。 『にじいろガーデン』は、泉と千代子、ふたりの女性が愛し合い、自分たちの子どもを育てながらタカシマ家という新しい家族を作っていくお話だ。 泉は男性との結婚に失敗しているし、千代子は自分の生まれ育った家族の価値観になじめない。 当たり前に家族を愛せるというのは、とても幸せなことであると同時に、幸運なことでもある。 幸運を手にした人にとっては当たり前でも、そうでない人にとっては奇跡としか言いようがない。 そんなふたりが、駆け落ちし、マチュピチュ村という新たな場所で、子育てをしながら少しずつその土地に根っこを張り、たくましく生きていこうと奮闘する。 幸せな時代があれば、悲しみに打ちひしがれる時代もある。 作品を書き終わった今、家族とは、共に笑い、泣き、同じものを食べ、一緒に眠る、そういう日々の積み重ねのみによってできる庭のようなものではないかと、改めてそう感じるようになった。 ただ自然に任せているだけでは、やがて庭は荒廃し、すたれてしまう。美しい庭は、決して一日で完成するものではない。 けれど、日々こつこつと草むしりをしたり水をやったりして愛情を注いでいれば、やがて美しい花の咲く季節が訪れる。 それでも、花が咲き乱れる季節がずっと続くわけではなく、時にはすべてが死んだように見える冬の時代もやって来るだろう。 そういう厳しさにめげることなく、それでもせっせと土と向かい合えば、また小さな芽が顔を出し、美しい季節が巡ってくる。 家族というのも庭と同じで、自然に成り立つものではなく、そこに人の手による努力が加わって、はじめてその姿を現す。 そういう意味では、家族とは人工のもの。 自然という血のつながりはきっかけに過ぎず、その後をどう理解しあって前に進むかが、家族としての正念場であると思うのだ。 ずっと家族という不可解なものに向き合ってきたけれど、この作品が、自分の中ではひとつの終着点のように感じている。 家族とは、血のつながりではなく、いかに幸せな時間を共有したかだ。 『にじいろガーデン』を書くことができて、本当によかった。 私が人生の最初に味わった理不尽さは、私を、物語という世界に導いた。そういう面では感謝している。 そして、私がこの作品でもっとも伝えたかったのは、人生にはいくらでもやり直しがきくということ、なのではないかと思う。 人生に間違いは起こりうるもの。けれど、そこから抜け出す道は、絶対にある。家族とは、自分の手で作るものなのだから。 泉と千代子が、そうしたように。 泉が、幸せでありますように。 千代子が、幸せでありますように。 草介が、幸せでありますように。 宝が、幸せでありますように。 私は、高島家のメンバー四人が、それぞれ大好きだ。中でも、宝の明るさは、ぐんを抜いている。宝には、大いに助けられた。 『小説すばる』担当の栗原彩香さん、単行本担当の伊礼春奈さんには、本当に本当にお世話になった。 各章ごとの打ち合わせのたび、毎月、仮住まい中だった鎌倉の山奥まで足を運んでくださった。 おふたりが担当でなければ、この作品は決して生まれていなかったのだ。 つくづく私は、優秀な編集者に恵まれている。そのことを、心から誇りに思っている。 装丁の大久保伸子さん、装画の西淑さんをはじめ、この本の誕生にかかわってくださったすべての方に、感謝申し上げます。 この物語が、読者の方にとっての心の庭になれることを願ってやみません。 2014年10月1日…

『リボン』

『リボン』

ずっと、一羽の鳥を巡る物語を書きたいと思っていました。 私も幼い頃、家でセキセイインコやオカメインコを飼っていた経験があります。 大切なインコを誤って逃がしてしまった時は、何枚もイラストを描いて、近所の電信柱に張り出したりして探しました。 すみれちゃんほどの愛鳥家とは言えませんが、私も鳥が大好きです。 そのことを公言していたら、私の周りには、どんどんかわいらしい鳥達が集まるようになってきました。 ブローチに指輪、オーナメント、私は今、そんな鳥達に囲まれて暮らしています。 この作品に取り組む前には、東日本大震災がありました。 だから、前回の長編作品『つるかめ助産院』との間には、深くて大きな溝があります。 想像をはるかに超える惨状を前にして、自分の力のあまりの無力さを痛感しました。 心の一部が完全に壊死してしまったようになり、そのすっかり感覚を失ったかのような壊死状態は、今もまだ続いています。 すぐにボランティアに駆けつけることもできず、大きなチャリティーをすることもできず・・・。 自分も同じ東北で生まれ育ったというのに、被災地に足を運ぶこともできません。傷ついてしまった人の話に、直接耳を傾けることもできません。 結局は、今まで通り電気を使い、普通に暮らしている・・・。 なんとなく、罪悪感というか、後ろめたく感じながら過ごす日々でした。 でも、そんな時にふと、自分の本分はなんだろうと考えました。 そして、自分はやっぱり物語を書くことしかできないのだと気づきました。 だからこそ、『リボン』は、とにかく優しい物語にしたかったのです。 『食堂かたつむり』でデビューをさせていただいてから、五年が経ちました。 長編としては、ちょうど五作目。あの頃は、次の作品が書けるのかどうかすら危うい状況でしたから、こんなふうに私が書くことを続けていられるのは、本当に、読んでくださる皆様のおかげです。 (作品の)出産も回を重ねるごとに、いちいち、死ぬ~、とか、苦しい~、とか叫ばなくてもよくなってきました。 陣痛の辛さもある程度は予想できるようになりましたし、だんだんと産道も広がって、スムーズに生み落せるようになった気がします。 それでももちろん、毎回、産みの苦しみはあるのですけど。 そのことを踏まえた上で、コンディションをうまく整えられるようになったのは、自分の中ではかなり大きな成長だと思っています。 『リボン』は、再びポプラ社の吉田元子さんに担当していただいた、私の中ではとても大きな意味のある作品です。 この物語は、絶対に吉田さんの下で書こうと、最初から決めてありましたので。そのタイミングが訪れるまで、もう、七、八年くらい、そっと胸の中で温めていたことになります。 本当に、私は親鳥が卵を温める気分で、物語を書いていました。 第一稿では、全く違うラストシーンになっていました。 でも、なんだかそれでは違うような気がして、今のような内容に変更しました。 そのシーンだけですが、なんとなく私の頭の中では、ひばりさんが吉田さんに、私がリボンになっています。 リボンは鳥であり、誰かを勇気づけようとか、誰かと誰かを結び付けようなんて、きっと、これっぽっちも考えていません。 ただ、そこにいて、生きているだけです。 でもそれでも、ある時は目の前の人を励ましたり、ある時は少し離れた場所から笑わせたり助けたりと、かけがえのない存在になっていきます。 小さな体で、人と人や、人と鳥を結んでいく。 それはきっと人も一緒で、私を含め、それぞれの人がリボンの役目を果たしているのだと思います。 だからすべての生きとし生けるものは、ただそこにいるだけで、使命を全うしているのではないかと思うのです。 取材をする中で、「とり村」代表の松本荘志さんにお話をうかがいました。 鳥を保護するような施設があったらいいな、と思っていたら、実際にあるのですね。 作中に登場する「鳥のいえ」のモデルは、「とり村」です。 松本さんがおっしゃるように、鳥は平和のシンボルです。 風景の中に鳥がいるだけで、なんとなく、幸せな気持ちに包まれます。…

『あつあつを召し上がれ』

『あつあつを召し上がれ』

はじめての短編集です。 『旅』に連載した六編に、書き下ろし一編を加え、合計七つの食べ物にまつわるお話がおさめられております。 外国の港町でほんのひととき席がとなりになった老夫婦や、友人が何気なく話してくれたエピソード、たまに行くレストランの人気メニューなど、私が実際に見た景色や食べた味、足を運んだ場所などが、物語の種となりました。 中でも、「こーちゃんのおみそ汁」は、実在した女性、安武千恵さんの生き方に強く影響を受けて書いた作品です。 私よりも遅くこの世に生を受けた知恵さんは、乳がんを患い、私よりも早く、33歳という若さで、この世を去ってしまいました。 千恵さんは、亡くなる前、まだ幼稚園児だったお嬢さんに、おみそ汁の作り方を教えたといいます。 そして今、小学生になったお嬢さんは、毎日おみそ汁を作っているそうです。 生前の千恵さんとお会いすることはできませんでしたが、千恵さんの、まっすぐな強い生き方に、とても強く心を打たれました。 不思議な縁が幾重にもかさなって、まるで千恵さんに導かれるようにして書いたのが、「こーちゃんのおみそ汁」です。 とりわけ思い入れの深い作品となりました。 上梓するにあたり、新潮社、『旅』編集部の伊熊泰子さん、文芸編集部の森田裕美子さん、新潮社装丁室、装画の満岡玲子さんはじめ、たくさんの方のお力をお借りし、お世話になりました。 本の誕生にかかわってくださったすべての方々に、心からのお礼を申し上げます。 本当に、ありがとうございました。 読み終わった時に、少しでもおなかがぽかぽかと温かく感じていただけましたら、幸いです。 また、次の作品でお目にかかれますよう。 2011年 10月末日 小川糸

『つるかめ助産院』

『つるかめ助産院』

生きることは辛いこともあるけれど、それでも生まれてよかったと思えるような物語を書きたくて、精一杯書きました。 今まででもっとも大きな「陣痛」を経験しましたが、その分、愛おしさもひとしおです。 私と主人公「まりあ」の境遇は違いますが、これは、私自身の物語と言えるのかもしれません。 私の魂の欠片みたいなものが、たくさん入った作品になりました。 今回、作品を共にしてくださった集英社の伊礼春奈さんに、心からの感謝を申し上げます。 伊礼さんが、心地よい環境を作ってくださったおかげで、自分の呼吸に合わせた自然なお産をすることができました。 途中、くじけて、「(この作品を)最後まで書けるかどうかわかりません」と弱音を吐いてしまいましたが、その時にくださった、「信じています」という短い一言に、どんなに背中を押されたかわかりません。 この作品が、伊礼さんにとって、担当する初の作品となることを、本当に嬉しく、誇りに思っております。 本当にありがとうございました。 また、渡名喜島への取材も同行してくださり、俯瞰的な立場から折に触れてアドバイスをくださった羽喰涼子さん、『小説すばる』掲載に際して、新入社員でありながらも奮闘してくださった栗原清香さん、お二人にも本当にお世話になりました。 感謝の気持ちでいっぱいです。 そして、「まりあ」にとっての「つるかめ先生」とも言うべき、私にとっての心の親方、辺銀愛理さん、本当に本当に、どうもありがとう。 愛理さんに出会っていなかったら、この作品はきっと生まれていなかったと思います。 たくさんの感謝の気持ちを込めて、この本を贈ります。 この作品を執筆中、私の数少ない友人達が、続々と身ごもりました。 そして、みんな、無事に身二つとなりました。 私の知らない「妊娠」という未知なる世界については、彼女達がざっくばらんに教えてくれました。 本当に感謝しております。 帯にすばらしいコメントを寄せてくださった、女優の宮沢りえさん、生物学者の福岡伸一さん、 今回もまた、美しい装丁をしてくださった大久保伸子さん、写真の鳥巣佑有子さん、刺繍のみずうちさとみさん、 至らぬ点を多々カバーしてくださった校正者の皆様、 集英社の宣伝や販売に関わってくださったすべての方々に、 心からのお礼を申し上げます。 自分一人でいたらわからないけれど、誰かのそばに行って手を差し伸べることで、自分自身が他の人にとっての温もりになれる。 これは、まりあが南の島で少しずつ体で気づいていったことですが、『つるかめ助産院』も、読んでくださった皆様にとって、そんな存在になれたらいいな、と思っています。 最高に痛かったけれど、本当に気持ちいい「出産」でした。 この作品を書けて、今、すごく幸せです。 『つるかめ助産院』を読んで、少しでも、今ここにいる幸福を、実感していただけましたら、幸いです。 また次の作品で、読者の皆様とお会いすることができますように! 2010年 師走 小川糸

『ファミリーツリー』

『ファミリーツリー』

この作品は、私にとって、とても意味のある一冊のような気がします。 『食堂かたつむり』でデビューさせていただいたのが去年の一月、まだ二年も経っていないのが信じられないくらい、濃密な時間を過ごしてきました。 そんな中で、今、『ファミリーツリー』を発表できることは、とても幸せなことに感じています。 後ろを振り向かず、前だけを見て書きました。 いわゆるプレッシャーという意味では、前作の『喋々喃々』とは比較にならないほど、大きかったように思います。 書いている間は、とにかく夢中でした。 意識が朦朧とする中ゴールを切った、マラソンのようでした。 私の中でも、たくさんの葛藤があり、悩みがあり、編集の間は本当に苦しかったです。 作品と共に、心中してしまいたいような気持ちになる時もありました。 でも、その苦しみの中から抜け出せた時、この作品が、私にとってかけがえのない「わが子」になりました。 今は、親バカかもしれませんが、愛しくてかわいくて仕方ありません。 今回も、そんな私を沿道から励ましてくださったのは、ポプラ社の吉田元子さんでした。 吉田さんには、いくら感謝しても、感謝しきれません。 4月頃、最初に原稿をお渡しした時、吉田さんはこの作品を「美しい野生の馬」のようだと言ってくださりました。 要するに、暴れ馬だったのだと思います。 それを、数ヶ月かけて、今度は吉田さんと二人三脚で、少しずつ、少しずつ、飼い慣らし、乗り心地のよい馬になるよう努めてまいりました。 吉田さんには、本当に苦労をたくさんかけてしまいましたが、私はこの作品を吉田さんと共に作ることができて、本当に嬉しいです。 きっと、担当してくださったのが吉田さんだから、この作品を書くことができたのだと思います。 本当にありがとうございました。 また、作品にこんなにも美しい衣装を着せてくださった、装丁の大久保伸子さん、イラストの新目恵さん、本当にありがとうございました。 何度見ても、本の奥から風が吹いてくるように感じます。 そして、スケジュールの調整など、私がもっとも苦手とする分野の窓口となってくださったアミューズの大川弘美さんも、本当にありがとうございました。 この作品を書けたことで、私はとても自由になれた気がしています。 『ファミリーツリー』が、読者の皆様の心のど真ん中に、ジェット機みたいにびゅーんと飛んでいくことを願ってやみません。 この本を手に取ってくださるすべての方に、心から感謝申しあげます。 2009年11月 小川糸

『喋々喃々』

『喋々喃々』

前作『食堂かたつむり』の刊行から、ほぼ一年が経ちました。 思いがけず、本当に多くの方に本を読んでいただけたこと、心から嬉しく思っております。 この一年間でたくさんの方とのご縁ができ、素敵な出会いも数多くありました。 私の生活も大きく変わり、「書く」ことが暮らしの柱になりました。 慌ただしく時間が過ぎていくこともありましたが、その中で生まれた作品が、『喋々喃々』です。 約一年を通して、「asta*」に連載させていただきました。 もちろん、デビュー作の反響が大きかっただけに、第2作へのプレッシャーが全くないかというと、そんなことはありません。 本当は、足がすくみそうなほど、怖くなることもありました。 ただ、ベストは尽くせたのではないかと思います。 今回もまた、完成するまでに、多くの方々のお力を貸していただきました。 まずは、作中に登場してくださった谷中界隈のお店の方々に、心からお礼を申し上げます。 谷根千エリアに残る空気の美しさや人の優しさをどうにかして言葉で表現したい、そんな思いを胸に書かせていただきました。 少しでも、現実の町の雰囲気に近付いていることができましたら、幸いです。 また、『食堂かたつむり』に引き続き、今回も作品に美しい衣装を着せてくださった、装丁の大久保伸子さん。 素敵な切り紙をたくさん作ってくださった、切り紙作家の矢口加奈子さん。 「asta*」での連載時に、毎回しっとりと美しいイラストを描いてくださった、松尾ミユキさん。 本当に、ありがとうございます。 校正者さん、印刷や製本に携わってくださった方々にも、心から感謝申し上げます。 そして、『喋々喃々』もまた、ポプラ社の吉田元子さんにお世話になりました。 吉田さんは、私にはもったいないくらいの、素晴らしい編集者です。 私は、吉田さんと二人三脚で作品を生み出せることを、本当に有り難く思っております。 イキの合う編集者と巡り逢えた私は、作家として、本当に幸せ者です。 アミューズの大川弘美さんにも、たいへんお世話になりました。 私が書くことに集中できるよう、スケジュールの管理など、私がもっとも苦手する分野を、手際よく仕切ってくださり、本当に感謝しております。 ポプラ社、アミューズのみなさま、本当にありがとうございました。 この作品に関わってくださったすべての皆様に、心から感謝申し上げます。 そして、縁あって、この本を手にしてくださる読者の皆様、本当に本当にありがとうございます。 この作品が、ほんの少しでも心の糧となることができましたら、作者として、そんなに嬉しい事はありません。 また、次の作品でお会いできる日まで。 小川糸

『食堂かたつむり』

『食堂かたつむり』

本、特に物語を読むことは、その作者と、旅をするようなものだと思います。 ピクニックのような小旅行もあれば、大きなスーツケースを引き連れての、長旅もあり。 同じ列車に乗っていても、右と左では全く景色が違ったり。 夜、共に同じベッドで眠ったり。 本を読むことは、作者と読者の、一対一の密接した関係です。 気がつくと、物語を書く人になりたい、と思っていました。 その思いは、強くなったり弱くなったり、時に濃度を変えながら、それでも絶えず、私の胸にくすぶっていました。 書くことは、私にとって、永遠に慕い続ける恋人のようなもの。 苦節十年、ようやくのデビュー作です。 明かり一つない長いトンネルの中で、けれど優しさや愛情を持って接してくださったみなさんに、心から感謝します。 また、このような最良の道を切り開いてくださったポプラ社、吉田元子さん。 吉田さんとの出会いは、私にとっての宝物です。 吉田さんに声をかけていただかなかったら、私は書くことを諦めていたかもしれません。 そして、優しいけれど力強さのある見事な装丁をしてくださった大久保伸子さん、 日なたの匂いのする素敵な絵を描きおろしてくださった、大すきなイラストレーター・石坂しづかさん、 本当にありがとうございました。 このような美しい本を手に作家としてスタートラインに立たせていただけること、本当にありがたく思います。 ご多忙の中、快く本を読んでくださった、スピッツの草野マサムネさん、ポルノグラフィティの岡野昭仁さんにも、心からのお礼を言いたいです。 お二人からいただいた帯の言葉、じんわりと胸に響きました。 宣伝にご尽力くださった、アミューズの大川弘美さん、 その他、直接お会いすることはありませんでしたが、校正者さん、印刷所の方、ポプラ社の宣伝・営業担当のみなさん、アミューズ関係者、応援してくださる書店さん、関わってくださったすべての方に、感謝の言葉を贈ります。 これから私は、『食堂かたつむり』という一冊の本を胸に、一歩ずつ、作家としての道を歩んでいきます。 山あり谷ありの茨の道ですが、全身全霊で料理を作った主人公・倫子のように、私も、出会えてよかったと思っていただけるような作品を目指し、日々、精進していきたいです。 最後に、人生の何億分の一かわかりませんが、旅の相手に選んでくださる読者のみなさんに、心からの感謝の気持ちを伝えます。 本当にありがとう。 『食堂かたつむり』が、あなたにとって、少しでも生きる糧になれれば、幸いです。 いつかまた、次の作品でお会いできることを祈りながら。 2008年1月 小川糸