山小屋の隣の家のオーナーが変わったらしい。 今年に入って、アプローチに砂利を敷いたり、簡易浄化槽を設置したり、外壁を塗り直したりしている。 前の所有者は、たまーに来ることはあっても、基本的にはほとんど空き家状態だった。 まぁまぁ古そうな家ではあるが、おそらく建築家に頼んで作った別荘で、三角屋根のシルエットがとても素敵だ。 せっかくいい建物なのにもったいなぁ、と思っていたら、私と同世代と思しき新しいオーナーさんご夫妻は、ほぼ毎週末ごとに東京から様子を見にいらっしゃる。 建物も、きっと喜んでいるに違いない。 台所仕事をしていると隣の家が常に目に入るので、良かったね、と喜びを分かち合っている。 おそらく、というか間違いなく、建物の内装は別にして、外観に関しては、住んでいる人よりも私の方が長い時間目にしているのだ。 自分の顔が自分では見えないのと一緒で、家も、その家の住人より外から誰かに見られることの方が圧倒的に多いと思う。 ということはつまり、家の外観をどうするかは、自分のため、というよりも、周りの人の目のため、の方が役割として大きいのかもしれない。 いくら自分がそういう家に住みたいからと言って、その環境に全く合っていなかったら、見る人の気分を害してしまうこともあるのかもしれない。 自分好みの好きな家を建てる自由ももちろんあるけど、同時にまた、その場所の景観自体がそこに生活している人みんなの財産なので、その財産を傷つけないことも大事だなぁ、と思った。 というのも、ちょっとそっち方面に行かないうちに、山小屋の周辺に新しい家が、しかもどこもかなり大きな家が、バンバン建っていたから。 今、山小屋の周りで、建築ラッシュが起きている。 先日、友人に頼まれて、中古マンションの内見に付き合った。 彼女は古くからの友人で、私より十ほど年齢が上。 まずは東京との二拠点暮らしをすべく、手頃なマンションをかなり長い時間をかけて探していた。 そしてようやく、条件に見合う物件と出会ったという。 マンション自体が少ない土地柄で、このエリアにあるマンションは全て見たとのこと。 バブルの頃に建てられたというそのマンションも、築年数はかなり経っていて、レトロな感じは否めない。 でも、中に入った時、「やな感じ」が全くしなかった。 共用部分のロビーにも、ちゃんと新鮮な風が流れている。 場合によっては、カビ臭かったり、空気が澱んでいる感じがしたりするのだ。 なんだかわからないけど、「やな感じ」がする場合は、正直に伝えようと思っていたのだけど、全然それがなかった。 でもこの、「やな感じ」も、人によっては、わからなかったりするのだと思う。 特に、すでに自分の中に「やなもの」を抱えていたりすると、感覚が鈍って正しい判断ができなくなる。 もちろん、本人にとっての「やな感じ」だから、一概には言えないけど、でも、そういう第六感的なものというか直感は、こういう場面ではとても大事。 ちょっとでも「やな感じ」がするのなら、いくらその物件の条件なんかが魅力的でも、やめた方がいいように思う。 建物だけでなく、土地にも言えることだ。 部屋の中に入っても、やっぱり「やな感じ」はなかった。 かなり痛んでいて、直さなきゃいけない箇所は色々あったけど、直せばきっと気持ちよく住めると思った。 聞けば、つい最近までおばあさんがひとりで暮らしていたという。 だからその空間には、誰かがちゃんとそこを愛して、大切に使った、慈しまれた記憶みたいなのが残されているように感じた。 人でも動物でも植物でもそうだけど、愛されれば嬉しいし、逆に愛されなければひねくれる。 建物だって、それは同じだと思う。 どんなに有名な建築家が設計した贅を尽くしたおしゃれな家でも、住人にそっぽを向かれて愛されなければ、家はどんどん廃れて輝きを失っていく。 そこにすでにある建物に必要な修繕だけして、更にその家の寿命を伸ばすというのも、とてもいいことだなぁ、と思う。 山小屋の窓から見えるお隣の家に、どんどん血が通い、元気になっていく様子を見ていると、私もまた健やかな気持ちになる。 友人の方は、購入の意思を決め、契約に向けて準備を進めている。