サンクチュアリ

その場所はとても静かで、独特な空気が流れている。
天井の高い空間にはいくつかの浴槽があり、人々は時間を忘れて湯治をする。
お湯の色は、焦茶色。
ぬる湯で、25度、30度、35度、37度、と湯船ごとに四段階あり、皆さん、それぞれの温度を移動しながら湯浴みを楽しむ。
レジャー施設のような浮かれた雰囲気はなく、治療施設や湯治場と表現した方が伝わりやすいかもしれない。

事実、大きな病を抱えたと思しき人が、お湯の効能を求めて長く浸かっている姿もよく見かける。
私が、もっとも好きな日帰り湯で、去年の秋以降、車で片道1時間かけ、毎週末のように通っていた。
目下、私にとってのサンクチュアリだ。
一角は、昭和の風情を色濃く残す温泉街で、泊まれる宿がいくつかある。

昨日は、施設からすぐの所にあるうどん屋さんで昼食を食べた。
満席で、同年代と思しき女性と相席だった。
名物は、鳥の天ぷら。
メニューに目を走らせつつ、欲張って天丼とうどんのセットを頼む。
このところ菜種梅雨が続いて肌寒いから、温かい汁のうどんをお願いした。

家族経営のかわいい店で、商店とカフェも併設している。
最近店を改装したばかりで、お座敷をテーブル席に替えたらしい。
おそらく、店に立つ40前後の女性がここのお嬢さんで、店に新しい風を吹かせているようだ。
奥の調理場では、お父さんとお母さんがせっせと立ち働いている。
うどんは細麺で、出汁がしっかりときき、シンプルでとてもおいしい。
目の前の相席の女性は、麻婆うどんを頼んでいた。
知り合いだったら一口味見させてもらったのだが、見知らぬ人なのでただ羨ましげに私はチラチラ眺めていた。
次回はこれを頼もうと思うけれど、また、ここに来ることがあるのかどうか。
それを思うと、なんだかやるせない気持ちになった。

この、私の大好きな日帰り湯が、今月いっぱいで閉鎖になってしまうのだ。
従業員や近隣の方達も、今月になって知らされたらしく、まさに寝耳に水。
施設を所有する市の判断らしく、建物の老朽化が理由だという。
確かに古いが、でも使おうと思えばまだまだ使えると思うのだが。

そのことを前回知って、3月の最後の週末、雨の中車を走らせたのだ。
うどんを食べに来たお客さんも、口々に、そのことを話題にしている。
日帰り湯として入れるのはこの施設だけだったので、ここがなくなると、私はこの素晴らしいお湯に入ることができなくなる。

食事を終えてからカフェに場所を移動して、コーヒーを飲む。
コーヒーに添えられたふたつの花豆煮。
程よい甘さで、簡単そうでなかなかこうは作れない。
さっき、うどんのセットについてきた沢庵もそう。
どれも、ちゃんと手作りしている。
前回買った手作りの味噌も、素晴らしい味だった。
商店には、地元産の豆や調味料など、良質なものが並んでいる。
施設が休業したら、こういう周りのお店の方達にも、影響が出るのは必須だ。
せっかくお店も改装したところなのに。
本当に気の毒で言葉が出ない。

コーヒーを飲んでから、少し坂を降りた所にあるおばあちゃんの店に行った。
ここで、おばあちゃんがあんこから全部手作りしているという金つばとお饅頭を買う。
どちらも、一個80円だ。
いつも、洒落た紙の袋に入れて渡してくれる。

あぁ。
おばあちゃんと会えるのも、今日が最後になってしまうのだろうかなどと、つい感傷的な気持ちになってしまう。

それから2時間、私は心して湯浴みを堪能した。
そして最後、いつも優しく受け入れてくれてありがとう、と感謝の気持ちをお湯に伝え、どうかまた再会できますように、という祈りの気持ちでお湯を出た。
きっと皆さん、同じ思いでお湯に浸かっていただろう。

帰りもまた、雨。
里の桜がほぼ満開で、きれいだった。