野良栗

食べ物が落ちていると、つい拾ってしまう。
今日は、栗と目が合った。
ノラコヤの打ち合わせに行き、終了後ぐるりと周辺を見回っていたら、落ちている、落ちている。
正確には、ノラコヤの敷地に生えている栗の木ではなく、お隣さんとの境界線にある栗なのだが、隣家にはもう誰も住んでいないし、こっち側にもたくさん落ちているので、気づいたら夢中で拾っていた。

なんて楽しいのだろう。
トングを持ってくれば良かった、と後悔しつつ、車に積んであるゴム手袋をはめて、一心不乱に栗を拾う。
縄文の人たち、きっと楽しかったはず。
足元に食べ物が落ちているって、本当に幸せだ。
ちょっと拾っただけでも、バスケットがずっしりと重たくなった。

母は、運動会の度に栗ご飯を作ってくれた。
私は、運動会そのものより、お昼に食べられる栗ご飯のお弁当が楽しみだった。
だから、私にとっての運動会は、栗ご飯。

大人になって、母が亡くなり、誰も私に栗ご飯を作ってくれる人がいなくなった。
仕方なく自分で栗ご飯を作ったら、なんて大変なんだろう、と途中で癇癪を起こし、栗を放り投げたくなった。
鬼皮を剥いて、更に渋皮も剥いて。
指先には、ナイフで切った小さな傷跡がたくさんできた。
その時、母がどんな思いで私に栗ご飯を作ってくれていたのか、ようやく理解し、号泣した。

もう二度と栗とは格闘するまい、と心に誓うのだけど、秋になって栗を見ると、去年の苦労をすっかり忘れ、つい買ってしまう。
でも、今年はその栗を拾うことができた。
多分、私がノラコヤでやりたいのは、こういうことだ。
私が拾わなかったら、きっと栗たちは、また分解されて土に戻るだけ。
だから、私が拾って、食べ物にする。
こんなにも美しいものを育み、分け与えてくれる地球に感謝しかない。

何分の一かはお世話になっているご近所さんにお福分けし、残りはこれからせっせせっせと栗仕事。
まずは山小屋で一番大きい鉄鍋にお湯を沸かして、そこに入れ、鬼皮を柔らかくしている。
今日拾った栗を全部お手入れするのに、一体何時間かかるのか。
果てしのない作業だ。

昨日は、トリスタンとピクニックをした。
例の如く、前日の夜にメッセージが来て、用事があって明日来るという。
ちょうど私も時間があったので、気持ちのいい森でピクニックをしようということになった。

近くのパン屋さんに行ってサンドイッチやらスープやらをゲットし、あとはいつも車に積んであるピクニックセットをそれぞれ持って、秘密の場所へ。
そこからは、遠くに滝が見えて、ちょっとしたスペースもあって、いい感じに光が降り注ぐ。
山小屋にあったリンゴやプルーンも、外で食べればまた格別の味になる。
わざわざ高いお金を払ってお店でランチなんかしなくても、これだけで十分。
森にいれば、こういう豊かな時間の過ごし方ができる。

トリスタンに、出来立てホヤホヤの『小鳥とリムジン』を手渡した。
最終的な本という形で読む読者は、おそらくトリスタンが第一号だ。

新刊の出版にあたり、私は久しぶりに緊張している。
どうなんだろう?
どんなふうに届くんだろう?
大丈夫かな?
でも、私とはもう臍の緒が切れているし、あとはこの作品が自分の足で歩いていく後ろ姿を見守るしかない。
頑張れよ!!!
心の中で、エールを送り続けている。