炎と人の声
雪見ワイン中。
お昼過ぎから、本格的に雪が降り始めた。
それまでは、降っても毛玉みたいなキュッと丸い粒状の雪だった。
それだと、乾燥しているし、風が吹くとすぐにどこかへ飛んでいってしまう。
でも今降っているのは、もっとずっしりと重たくて、存在感がある。
温泉に行くときは何ともなかった道が、帰りには白くなっていた。
よく考えると、この時期を山小屋で過ごすのは初めてかもしれない。
一昨年も去年も、確か12月は、一時的に様子を見に来ることはあっても、ずっと生活はしていない。
だから、今年はちょっと新鮮だ。
ただし、雪が降り始めの道には十分気をつけないといけない。
しっかりと雪が降ってしまえば、そんなに恐れることもないのだが、降り始めと降り終わりの時期は、つるんと滑って危ないのだ。
今日も、帰りは慎重に運転した。
冬に欠かせないのは、炎と人の声。
ちょっと前、そのことに気づいた。
お酒はまぁ、あっても、なくてもどっちでも大丈夫なのだけど。
集中して本を読みたいから音楽もかけず、そんなに寒くないので薪ストーブもつけないで夜を過ごしていたら、何だかみるみると良くない方へと思考が傾いた。
胸がえぐられて、そこに負の魑魅魍魎が吹き溜まりのように集まってくる感じ。
この不安定な感じは何だろう、と考えて、そうか、音楽も聞かず、薪ストーブにも火を入れていないからだ、という事実に思い至ったのである。
冬場は、音楽の中でもとりわけ人の声が聞きたくなる。
雪景色を見ながら、大音量でオペラをかけたりするのは、最高だ。
今聞いているのは、J.S.バッハ『マタイ受難曲』。
ベートーベンの第九も、最初から最後まで聞くと、本当に感動する。
もしかすると、冬は無意識のうちに人恋しくなっているのかもしれない。
人の声というのは、それだけパワーがある。
炎も、物理的に室温を上げるという機能以上に、精神面を温めてくれるという効果がすごくある。
炎を見ると、気持ちが安らぐのだ。
だから、冬に欠かせないのは、炎と人の声。
人によって、「炎と人の声」からイメージするものは様々かもしれないけど、私の場合は、冬の夜が真っ先に脳裏に浮かぶ。
森に山小屋を建ててよかったと思うことのひとつは、火が暮らしの一部になったこと。
都会では、焚き火することすら自由にできない。
火はあくまで非日常で、特別なもの。
でもここにいると、火が日常になる。
具体的には、薪ストーブで何だって燃やせるのだ。
燃やせるか、燃やせないか、は物を選ぶ際の大きな基準で、燃やせるということは、つまり土に、もっと言えば、地球に返るということ。
火は、圧倒的なパワーで、物の姿を変えてしまう。
だから、もちろん恐ろしい存在でもあるのだけど。
薪ストーブで木や紙を燃やすと、結構な量の灰が出る。
私はその灰をノラコヤに持っていって、畑や庭の土に撒く。
そうやって、姿形を変えながら、クルクルと循環する。
それが、そばで見ていてものすごく気持ちいい。
私はなるべくゴミを少なくしたいと思いながら暮らしているけれど、それでもお店で買い物をすれば、それなりの量のゴミが出てしまう。
こんなにゴミが出て大丈夫なのだろうか、と心配になる。
いや、全然大丈夫なんかじゃない。
本当は今すぐ、プラスチックゴミの問題を何とかしていかなくちゃいけないのに。
このままだと、近い将来、海では魚よりもプラゴミの量の方が多くなってしまうという。
一昨日、ようやく、今年の松ぼっくりを拾ってきた。
ダンボールも、いい焚き付けになる。
小枝だって、たくさん集めて乾燥させれば立派な薪だ。
今年からチェーンソーを使うようになったので、薪もだいぶ自分で確保できるようになった。
窓の向こうでは、雪がひっきりなしに降り続いている。
きっと明日の朝は、待ちに待った白い世界のお目見えだ。