水を食べる
朝、湧き水を汲みに行く。
その水に、寒天を溶かして冷蔵庫で冷やす。目指す硬さは、かなり緩め。
そこに、黒蜜をかけてデザートにする。
同じ器に、皮をむいた桃も添えたりなんかして。
桃も、水蜜桃という。
これぞ、夏のデザートだなぁ。
水は飲むものだけど、こうすれば、水を食すことができる。
冷たいかたまりが喉を通って、体の中心に涼しげなトンネルができる。
あぁ、幸せ。
月に一回ほど、スーパーに行って買い物をする。
ここのスーパーは品揃えがとてもよく、地元のものから全国各地のおいしいもの、海外の輸入物まで、良質な品が所狭しと並んでいる。
だから、実は全然困らないのだ。
森暮らしを始めたばかりの4年前、卵が手に入らなくて右往左往していた自分が恥ずかしい。
あの頃は、わざわざ東京からいらっしゃるお客様に卵をおねだりして持ってきていただいていたのだ。
今から思うと、とんでもない話である。
卵なんて、いくらでもあるではないか。
そのスーパーで、つい、買ってしまったのだった。
もう、出来心としか言いようがない。
それは大変だから、買っちゃダメ、買っちゃダメだってば、と冷静なもうひとりの自分が引き留めるのを完全に無視して、衝動的に手を伸ばしていた。
袋の中に入っているのは、黒い土をまとったらっきょうたち。
しかも、やけに粒が小さい。
通常、らっきょうは秋に植えて、翌年の初夏には収穫するのだが、どうもそのらっきょうは、足かけ3年もの歳月をかけ、じっくりと育てられたのだとか。
梅もそうだが、らっきょうも、小さけば小さいほど手間暇がかかる。
でも、買ってしまったものは仕方がないので、急いで山小屋に戻り、すぐにらっきょうのお世話を開始した。
梅仕事にようやく終わりが見えたと思ったら、今度はらっきょうである。
らっきょう、特別好きなわけではないが、カレーの時なんかは、やっぱりらっきょうが欲しくなる。
去年までは、手作りのおいしいらっきょう漬けをいただいていた。
でも、その方が、もう作らない宣言をし、今年からは自力で作るしかなくなってしまった。
よりによってこんなに小さいらっきょうを買わなくても、と思うが、これしか選択肢がなかったわけだし、やるしかない。
らっきょうは生命力が強いから、なるべく早く息の根を止めてしまわないと、芽を出してしまう。
まずは何度も水を取り替えながら外側を洗い、根っこと頭部分をハサミで切り落とし、更に薄皮をむいて、と数時間、黙々とひたすららっきょうのお世話に明け暮れる。
つけ汁には、私はいつも梅干しを漬けた際に出る梅酢を使う。
梅酢に砂糖を足して、場合によっては水やお酢も足して味を整え、煮立てたのをきれいにしたらっきょうの上からざばっとかける。
この状態でしばらく置くと、おいしいらっきょう漬けが完成する。
今年は鷹の爪が見つからず、黒胡椒を入れた。
吉と出るか、凶と出るか。ドキドキする。
どうか、あの手間暇が無駄になりませんように!
今は夏休み中なので、本を読んでは何か作って、また本を読んでは何か作って、を繰り返している。
らっきょうの次は、味噌を仕込んだ。
普段は大豆を鍋で何時間もかけてコトコト煮ている。
でもずっと火をつけていると暑いしなぁ、と思い、ふと圧力鍋の存在を思い出した。
やってみたら、あっという間に豆が柔らかくなる。
なんだ、これでよかったのか。
次からは、迷わず圧力鍋で炊こう。
今月中に、一年分の石鹸も作っておきたいし、夏休みとは言え、やることは目白押しなのだ。
昨日は、ちょっと遠出してサウナへ。
行く途中、期日前投票を済ませた。
昨今の米不足にしろ、物価高にしろ、多くは政治に起因する。
そしてその政治家を選んでいるのは、私たち。
投票もせずに社会に対して文句を言うのは、言語道断、だと私は思う。
なので、まずは選挙に行きましょう。
それにしても、投票所に行くと、なぜか、「ご苦労様でした」と言われる。
その度に、「?」と感じるのは、私だけだろうか。
私はただ、自分の義務を果たしただけなんだけどなぁ。
一日一回、スコールのような雨が降るせいで、洗濯物がなかなか乾かない。
でも、雨が降ると森は大喜び。
ノラコヤの庭は、草だらけだ。