森の民同盟

快晴。
朝から青空が広がっている。

先日入手した鳥の餌箱にひまわりの種を入れ、森の一角に吊るしてみた。
しばらくすると、鳥たちが方々から集まってくる。
仲間を集めるように鳴き、代わりばんこで餌台にやってきては、ひまわりの種をついばんでいく。
かわいい。
朝からうんと幸せな気分を味わった。

今週末、東京に一時帰宅(?)するため、仮の小屋じまいに追われている。
薪棚を作ったり、敷地内にできてしまった水路の流れを変えるための土木作業をしたり、来年の鹿対策に向けてミントを植えたりと、やることはきりがない。

短い夏が終わり、一日のうちで、人に会うより鹿に遭遇する数の方が俄然多くなった。
昼間はいいけれど、夜はたまに人恋しくなる。
そんな時は、『フォンターネ 山小屋の生活』を読んで、孤独を紛らわせた。

著者は、イタリアの作家、パオロ・コニェッティ。
彼には、『帰れない山』という代表作があり、私の本棚にもそれはあるけれど、実はまだ読んでいない。
『フォンターネ 山小屋の生活』は、ただただタイトルに入っている「山小屋」という言葉につられて買ったもので、『帰れない山』と同じ人の作品だというのも、後から知ったくらいだ。

『フォンターネ 山小屋の生活』は、まるで他人事とは思えないくらい共感できることがたくさんあり、私はなんだか知り合いの森仲間の文章を読んでいるような気持ちになった。

彼は、小説が書けなくなり、行き詰まった末に山小屋に籠った。
自分が森で暮らすようになって、その人が住んでいる場所の標高を初めて気にするようになったのだが、彼の山小屋は標高1800メートルのところにある。
私は、自分よりも高い標高のところに暮らす人に、初めて会った。
実際に会った訳ではないのだけど、まるで会った気分になって読み進めた。
孤独を味わっているのは自分だけではないのだと、彼の文章を読みながら、何度もそう感じて自分を勇気づけていた。

いくつもの山小屋「あるある」に微笑ましい気持ちにすらなったけれど、中でも、夜中に寝ていて物音がして、聴覚だけがぐんぐん研ぎ澄まされ、想像が果てしなく広がる経験は、まさに私も全く同じ時間を過ごしたことがあるので、彼の気持ちが痛いほどわかった。
実際は、なんのことはない、ただ木の実が屋根に落ちただけだったりするのが、夜中にいきなり物音がすると、その音の元を巡って、想像力が膨らんで止まらなくなってしまう。
稲妻だって、都会ではそれほど恐怖を感じないが、山で見るととてもつもなく神秘的な光に感じる。

山の民、森の民、海の民、川の民、町の民。
住む場所によって、いろんな「民」がいるが、私も彼も、間違いなく「森の民」だと感じた。
そして、この本にも名前が出てくるが、やっぱり森の民のリーダーは、ソローなんじゃないかと思う。
ヘンリー・ソロー。
『森の生活』は、森の民にとってのバイブル的存在だ。

最近、森暮らしを指南してくれるご近所さんができた。
実は薪棚も土木作業も、そのご近所さんのおかげでできたもの。
私はただ、横でぼーっと見ていただけで、まだまだ、森暮らしのスキルがない。
これからは、森の達人とでも呼ぼうか。
達人から、森の民として生きるための多くの知恵を学ばせていただきたいと思っている。

それにしても、去りがたい。
来月、用事を入れてしまったのでどうしても東京に戻らなくてはいけないのが、ただただ切ない。
これから森は、紅葉の季節を迎える。
また一ヶ月もせず森に戻ってくる予定だけれど、そのダイナミックな変化をこの目で見届けられないことが、悔しい。
おそらく、来月私がまた森に戻る頃には、落葉樹は葉を潔く落とし、今とは全く違う風景が広がっているのだろう。

本当に、一瞬のうちに過ぎた夏だった。