森のお茶会

朝、外に出たらコメツガの大木の下で雨宿りをするシーの親子がいた。
母鹿と、仔鹿。
仔鹿はまだ小さくて、背中に白いかのこ模様が点々とある。
私の存在に気づいたらしく、颯爽と森の奥へ駆けて姿を消した。
そう、その方がお互いにいいからね。
どうか、人や車に慣れませんように。

最近、立て続けに車にはねられた野生動物を見た。
この間は、猫。その前は、狐。そして、昨日は狸か何か。
そういう姿を見て、心の底から可哀想と感じるようになった。
都会で猫が道路に死んでいるのを見ても、以前だったら、ただ気持ち悪がって避けて通るだけだったと思う。
でも今は、本当に気の毒だと思う。
できることなら、それ以上車に潰されない、道の横に動かしてあげたい。

はねる方だって、はねたくてはねたわけではないだろう。
でも、そんな形で生涯を終えざるを得なかったその生き物が、可哀想でならない。
せめて、命を全うし、最期は土の上で迎えて欲しかったと思う。
人の暮らしが動植物たちの住処を奪っているのは明らかで、これ以上奪ってはいけないのではないか。
そういう場面に遭遇するたび、強く思う。

昨日は大雨で、道路一面に、獣の骨や内臓が散らばっていた。
なるべくなるべくひかないように、車を走らせたけど。
ごめんなさい、と思う気持ちは今も続いている。

大雨の中出かけたのは、お茶のお稽古に行くためだった。
友人に先生を紹介してもらい、昨日がそのお稽古の日だった。
お茶のお稽古は、もう20年近くご無沙汰している。
その間に、ほぼほぼ忘れている。

でも、20年前は理解できなかったことも、今ならできるかもしれない、と思ったのだ。
昔は、うわぁ、めんどくさくて絶対にこれは無理、とはなから作るのを諦めたお菓子も、今レシピを見ると、あれ? そんなにめんどうじゃないかも、となって、すんなり作れたりする。
車の運転だって、おそらく私が二十歳の頃だったら、できなかっただろう。
いろんな経験をし、分別もつくようになった今だから、自分を信用できるようになり、運転もできるようになった。
だから、お茶の世界も、今だとまた違った感性で入れるかもしれない。

先生は、確か89歳。
田んぼに囲まれたお寺で、マンツーマンで教えてくださる。
月に一度、心静かにお茶を飲みたい、そのついでにお稽古もしたい、というのが私の希望だった。
そのことを正直に話して、それでもいいですか? と尋ねたら、いいですよ、とのことだったので。
ちなみに、一回のお稽古代は、一千円だ。

個人授業なので、私以外に生徒がおらず、自分でたてたお抹茶を自分で飲む。
一口飲んだところで、先生が、おいしいでしょ? とおっしゃった。
確かに、自分でたてて言うのもなんだが、本当においしいお抹茶だった。
水がいいからね、お茶もおいしいの。
確かに。
全体的に水のおいしい場所だけれど、この辺りは特に、水がおいしいのだ。
なんという贅沢。
山の湧き水で、お抹茶がいただけるなんて。
なんの向上心もない生徒で申し訳ないが、このゆったりとしたペースで、これからも通わせていただこう。

2時間のお稽古を終えて外に出ると、目の前を猿の集団が走り去っていく。
こっちの方は、猿がいるのか。
猿は手強いという話をよく耳にする。
シーなんて、まだかわいい方かもしれない。

最近、外出先から車で山小屋に戻ってドアを開けると、ふわりと、独特の植物の香りがするようになった。
私が理想とする、「良い香りのする庭」に一歩近づいたかもしれない。
私の庭の匂いが、確かに存在する。

いつか、森のお茶会ができたらいいな。