夢見つつ
午後、温泉へ行こうとして近くの道を車で走っていたら、おや?
道端に、タヌキが背中を丸めてうずくまっている。
うつ伏せの状態で、動かない。
ただ、見たところ外傷はない様子なので、大丈夫だろうかと心配しつつも、そのまま現場を離れた。
でも、やっぱり気になる。
あんなところで寝ていたら、風邪を引く、じゃなくて、車に轢かれてしまう。
さっきはまだ明るかったからよかったけど、日が暮れて真っ暗になったら、間違いなく車の下敷きなる。
寝ているのなら、起こしてあげた方が良いのではないか、と考え、同じ道を通って帰宅する。
タヌキは、姿を消していた。
よかった、よかった。
調べてみると、タヌキは強いショックを受けると、気絶して動けなくなるらしい。
この習性から、「狸寝入り」という言葉か生まれたのだとか。
狸寝入りは、寝ていないのに眠っているふりをすることを言うけど、さっきのタヌキは、別に寝たふりをしていたのではなく、仮死状態になり本当に身動きが取れない状態にあったのだ。
そんなの、初めて見た。
一体、何にそれほど驚いたのだろう。
シーがよくたむろしている場所だから、いきなり黒々としたオスのシーでも現れてびっくりしちゃったのだろうか。
とにかく、怪我とかじゃなくて、ホッとした。
昨日は、私にとってのちょっとだけ特別な一日だった。
一番好きなことをして過ごそうと思い、朝、ゆりねを連れてノラコヤへ。
平日だったら普通に仕事をしたのだが、昨日は週末だったので。
庭に、せっせと球根を植える。
『独り居の日記』を書いたアメリカの作家、メイ・サートンの著書に、『夢見つつ深く植えよ』という作品もあって、私はこちらの本も好きなのだが、この言葉はまさに球根を植える際にサートンが書いた言葉だ。
だから私も、球根を植える時はいつも、呪文のようにこの言葉を繰り返す。
メイ・サートンとは生まれた時代も生きた場所も異なるけど、私は彼女の書いた文章を読んでいると、とてもとても親近感を覚える。
赤の他人とは思えないほど。
彼女も、春を待ちわびる切実な気持ちで、自分の庭に球根を植えたのだろう。
球根は、忘れた頃に芽を出して、花が咲く。
それがいいのだ。
自分でも、どこに何を植えたのか、覚えていなくて、だから、球根は、自分へのサプライズプレゼント。
冷たい土の中でしっかり冬を耐え忍ぶことで、美しい花を咲かせることができる。
しかも、球根は義理堅くて、裏切らない。
約束を守るように、植えたら、ほぼ確実に咲いてくれる。
だから、私は球根が好きだ。
今年も、原種のチューリップやムスカリ、スノードロップなどを植えた。
もうすでに、春が待ち遠しい。
その後、久しぶりにゆりねと里を散歩した。
そういえば、今年は柿の実がものすごく立派だった。
去年、大胆に剪定したからだろう。
実が、去年の倍くらいある。
枝を落とした分数は少ないが、それでも、十分な収穫だった。
そのまま食べるとうっすら渋いので、焼酎で渋抜きして食べたところ、ものすごく甘い。
食感は、完熟したマンゴーのようで、高級柿に引けを取らない。
見事な出来だった。
と言っても、私が何をしたわけでもなく、ただ昔からある柿の木が自然の摂理で実をつけたに過ぎないが。
なんという、恩恵だろう。
竹の竿が届かなくて収穫できなかった高いところの実はそのままにしてあるので、それらは鳥が食べてくれたら嬉しい。
一度山小屋に戻ってから、若きピアニストの演奏を聴きにコンサートへ。
実は、去年も彼のピアノを聴きに行き、感動したのだ。
今年は、もうひとりゲストのピアニストも登場し、ふたりでピアノを共演する。
前半はショパンだったが、後半は即興演奏。
まったくなんの打ち合わせもしていないふたりの天才ピアニストが、その場で曲を作り上げていく。
才能があるとは、こういうことなのか。
素晴らしかった。
まさに、一期一会のコンサートだ。
夕暮れ時、興奮を抱えたまま山小屋に戻って、薪ストーブに火を入れる。
夕飯は、薪ストーブのオーブンで焼いたピザ。
赤ワインを飲みながら、コンサートの余韻に浸った。
酔い覚ましに外に出ると、空には無数の星が輝いている。
生まれたことを、今生きていることを、心の底から喜べた。
