どなたでもどうぞ食堂
雪が降ったかと思えば、手袋もいらないほどの暖かさ。
少しずつ、春が本腰を入れて近づいている。
週末、湯浅誠さんの『つながり続けるこども食堂』(中央公論新社)を読んだ。
世の中捨てたもんじゃないと思うのは、こども食堂の存在だ。
全国の津々浦々で、自然発生的に誕生したという。
こども食堂は、民間によって、基本的にはボランティアで運営されている。
大人数を受け入れることはできないけれど、毎日もできないけれど、月に1回とか2回とか日にちを決めて、その日は、こどもは無料、大人も300円程度の低額料金で食事を提供する。
町の公民館などを利用する場合が多いらしいが、中には自宅を開放してこども食堂を開く人もいる。
土台になっているのは、「おせっかい精神」。
お腹が空いてるなら、ここでご飯食べていきな、というちょっとした愛情表現だ。
この日本で、お腹いっぱい食べられないこどもがいる。
その統計結果に衝撃を受け、だったら何か自分にもできることはないだろうか、と市井の人たちが立ち上がってスタートした。
ただ、私も含めて、多くの人は、こども食堂は、食事に困っている家庭の子が対象だと思い込んでいる。
だから私も、興味はあったものの、自分がそこへ行くのは申し訳ないんじゃないかと思っていた。
でも、実際のこども食堂の8割程度は、食べるのに困っているこどもだけでなく、地域のお年寄りや、子育て世代など、多くの、すべての人たちに解放された場所だという。
つまり、こども食堂=どなたでもどうぞ食堂。
こどもを中心に据えているというだけで、誰でも気軽に行っていい場所なのだ。
もちろん、私も行っていい。
そこで、こども達は、親以外の多くの大人と交流し、社会を知る。
無縁社会と言われるけれど、こども食堂ができることで、その地域に人と人とのつながりができていく。
こども食堂をやっている人は、自分のできることを、できる範囲で、無理をせずにやっているだけ。
目の前にお腹を空かせている人がいる。だったら、何か食べ物を分けてあげよう。
そのシンプルな動機が、長続きする秘訣かもしれない。
ボランティアとか寄付とか、全てに言えることだけれど、相手に感謝されたくてその行為をするのではなく、ただ自分がそのことに喜びを感じるから、する。
結果的に自分も幸せになれるから、する。
極論を言ってしまえば、自分の自己満足のために、する。
私自身は、そういうスタンスだ。
コロナで、こども食堂のあり方が問われたという。
こども食堂は民間によるボランティアだから、行政による後ろ盾がない。
緊急事態宣言が出され、不要不急の外出自粛が叫ばれる中、それでも生きていくためには食べ物が必要で、なんとか工夫をこらしながら、困窮している家庭に食材やお弁当を届けたそうだ。
こども食堂のような取り組みが行われている国が他にもあるのかどうかわからないけれど、こども食堂は、日本が誇れる未来への光のような気がした。
こういう動きが、ほぼ同時に全国で自然発生したというのは、多くの人が、同じような感情に動かされたから。
本当に素晴らしいと思う。
孤独を抱え込まずに、まずは近くのこども食堂へ。
それで、少しでもその人の生きづらさが解消されたら、いい。
それぞれのこども食堂はささやかなボランティア団体で、誰も、ここから日本を変えよう、なんて大きな目標は掲げていないはず。
でも、その小さな存在のこども食堂が、地域に根を張って、間接的に地下で多くの根っこを張り巡らせれば、それはとても大きな力となって、結果的には日本を根底から支えるだけの原動力になるんじゃないかと思った。
自然界の森の木々たちのように。
彼らは、地下のネットワークを通して、情報を交換しあい、お互いに共存していく道を探っているという。
こども食堂は、災害などが起こるたびに数を増やしてきた。
今、全国には7000を超すこども食堂がある。
全国こども食堂支援センター・むすびえの代表をつとめる湯浅さんは、すべての小学校区にこども食堂があるという状態を目指しているという。
この10年で、それだけの数のこども食堂が誕生したのだ。
不可能ではない気がする。
それにしても、トルコで起きた地震の犠牲者が、日に日に増えていく。
トルコだけでなく、シリアにも多くの被害が出ている。
ニュースを見ていると、世界は本当にギリギリの危うい崖っぷちに足を載せているような気がしてしまう。
10年後どころか、1年先、2年先の未来が、なんだかよく見えないな。