庭仕事
去年は7月から森に来たので、なんとなく途中参加だった。
森に関しては一切手を入れず、ただただ新参者として呆然と眺めていた。
でも今年は、春を迎える前からもう森に参加している。
だんだん、森と呼吸が合ってきた。
森は何もしなくても美しいのだが、今年は少しだけ、手を加えてみようと思う。
苔のために。
光輝く苔の森になるよう、ほんの少し、私が介入する。
それで、数日前から草取りを始めた。
雪解け直後が、草を抜くのに一番いい気がしたので。
日に日に雪が解け、その下から緑が顔を出している。
牧草だけ、取ることにしたのだ。
それが正解なのかどうかは、未だわからないけど。
苔と牧草が重なっているところだけは、苔を優先してみよう。
とは言え、それはものすごーく終わりのない作業だ。
広い森の地面から、一本一本、地道に草を抜くのである。
抜いてもきっと、またすぐに生える。
それをまた、根気強く一本一本抜いていく。
地球という皮膚から、ムダ毛を一本ずつピンセットで抜くようなもの。
想像しただけで、気が遠くなる。
そんな作業を、数日前から始めている。
去年は、そんな発想すら生まれなかった。
ところが、だ。
やってみると、これがこの上ない快感なのだ。
一度始めてしまうと、没頭して、1時間や2時間、あっという間に過ぎてしまう。
ゆりねの散歩とか、自分の温泉とか、そういうのを全部ナシにしてしまえば、きっと日が暮れるまで、やってしまうだろう。
ただ草を抜くだけの作業が、こんなに幸福を感じるとは思わなかった。
この森は、決して肥沃な大地ではない。
標高が高いので、植物もぎりぎりのところで生きている気がする。
種を蒔いても、芽を出す確率はとても低く、たとえ芽が出ても、大きく成長するのはなかなか難しい。
とにかく、自然が厳しいのだ。
それでも、岩盤の上に落ち葉が重なり、その場所が微生物によって耕され、やがて時間をかけて腐葉土になる。
草の根っこを引き抜いた瞬間に、ぷーんと香ばしい土の芳香が広がると、なんとも幸せな気持ちになるのだ。
私の体に、オキシトシンがじゃぶじゃぶ溢れる。
今日は、去年ダメ元で球根を植えた所から小さな芽が出てるのを発見した。
大好きなスギゴケも、冬を越せたことがわかった。
落ち葉を避けると、そこに青々とした苔の姿が出現する。
草を抜きながら、私は完全な恍惚を味わっている。
時々コーヒーを飲んで。
巣箱には、鳥たちが集まってくる。
私がやっていることは、ただの自己満足にすぎないかもしれない。
俯瞰で見たら、いくら大きなビニール袋いっぱいに草を抜いたところで、たかが知れている。
でも、なんとなく、気持ちがいいのだ。
苔や石、樹木たちが、喜んでいるように感じる。
風通しが良くなったような気がする。
そんなことを思っていたら、いい言葉に巡り合った。
「目は臆病、手は鬼。」
気仙沼で、よく知られている諺だという。
一瞬、どういう意味かと首を傾げたが、意味するところを知ってなるほどと思った。
つまり、目で見て大変そうだと思っても、手が仕事を始めてしまえばなんとかするものだ、というような意味らしい。
そうそう、まさしく私の庭仕事もそれだ。
(今朝の新聞に出ていた、気仙沼ニッティングでニットデザインを担当する三國万里子さんの言葉から。)
ところで、最近、ご高齢でも自立してひとり暮らしをするスーパーおばあさんに注目が集まっている。
そんなおひとり、溝井喜久子さんの言葉が印象に残った。
「老後のことを考えると心配です。どうすればいいですか?」という質問に対して、喜久子さんは、
「心配をするのではなく、備えましょう」と答えている。
そして、それはただ節約するのではなく、無駄なお金は使わないけれど、我慢はせずに使うべきところに使うことだという。
人生を楽しみながら、備えるということ。
なるほど、確かにそうですよね。
不安だ不安だとただ漠然と騒いで精神を消耗したところで、なんの解決にもならない。
もしも不安で眠れないなら、本を読めばいいというアドバイスも、傑作だ。
さすが、人生の大先輩。
注目されているということは、こういう生き方をしたいと思っている人が多いのだろう。
スーパーおばあさんはあちこちで活躍しているのに、スーパーおじいさんは、あまり出てこないなぁ。
庭仕事に精を出すと、夜、布団に入ってすぐに寝てしまう。
この、しっとりと満たされた感じは、一体何?
母性本能の目覚め? それとも、エクスタシー??
わが子に授乳する母親の感覚に、うっすらとだが、触れた気がする。
おそらく、一切「義務」ではやっていないのが良いのだろう。
そうすると、そこには純粋無垢な歓びだけが残される。
明日も、庭仕事をするのが楽しみだ。