銀鱈の粕漬け

結局、また山小屋に戻ってきた。
一応、気持ち的には一回「閉じた」感じだけど、なんだかまだ名残惜しいし、痛いくらいにグイグイと後ろ髪を引かれるので。
それに、里から見ると、まだ大丈夫そうだし。
こういう時は、直感に従って行動に移すのが一番だ。

その、最初の日。
午後4時前には山小屋にチェックインする。
数日空けただけで、家全体がキンキンに冷え切ってしまっているから、すぐにムッティに火を入れた。
本当に日が暮れるのが早くなった。
適当にあるものを食べればいいや、と思っていたので、特に買い物もしてこなかった。
それよりも、まずは明るいうちに戻ることが大事だったので。

夕方5時にはもう外は真っ暗になり、さて今日は何を食べようかな、と頭を悩ませていると、ピンポーン。
こんな時間に宅配便? と不審に思いながらも出てみたら、ご近所さんだった。
少し遠出をした先にいいお魚屋さんがあり、そこの銀鱈の粕漬けを持ってきてくださったのだ。
「昨日届けに来たんだけど、いなかったから。ちょっと塩が回っちゃってるかもしれないけど」
なんてラッキーな。
山小屋に戻ろうと思ったのは、野生の勘が働いたせいかもしれない。

銀鱈の粕漬けなんて、いつぶりだろう。
さっそく、焼いてみる。
野菜は、糠床に入れっぱなしになっていた蕪を一つ発掘した。
日本酒が残っていたので、それをちびちび飲みながら晩酌をする。

なんてすごいご馳走なんだ!!!
普段、肉も魚もほとんど食べないから、本当に銀鱈の粕漬けなんて、数年ぶりに口にした。
食べるものがないなぁ、と嘆いていたのが嘘のよう。
棚からぼたもち、だっけ?
ムッティのおかげで無事に温まってきた山小屋で、私は小躍りしながら海の幸を堪能した。
銀鱈の余韻は、次の日も、その次の日も、私をふわふわの幸せで包み込んでくれた。

毎日のようにこういうのを食べていたら、この味のありがたみはわからなかったはずだ。
でも、私はもう、山小屋で暮らすようになってから、ほとんど外食をしていない。
特に、夜の外食は、記憶にある限り一回だけだ。
ふだん買うのも野菜とか納豆とかお豆腐とかで、ハムやベーコンはたまに買うけど、生の肉は滅多に使わないし、ましてや生の魚となるとまず買わない。
森暮らしになって、食生活が一番変化した。
魚を口にするのは、たまーに缶漬けを開けた時くらい。

山梨県も長野県も海なし県ではあるが、もちろん、買おうと思えばちゃんといい魚が手に入る。
でも、あんまり食べたいと思わなくなった。
それは、ベルリンにいる頃からの傾向だけど。

今はもう、ミシュランがどうとかどうでもいいし、星が幾つだから行きたい、という気持ちも起きない。
星なんかなくたって、おいしい店はたくさんあるし。
何ヶ月も前から予約して、一回の食事に何万円も払ってまで胃袋を満たしたい、とは思わないのだ。

それよりも、自分の大好きな地元で大事に育てられた野菜や果物を口にする方が、よっぽど幸せを感じるようになった。
もし、ひとり3万円のレストランに行こうと誘われたら、今の私は辞退する。
だったら、自分は1万円でご馳走を食べ、残りの2万円は寄付して誰かのお腹が満たされる方がよっぽど有効だし、私自身、その方が幸せを感じる。

なんてことを書いていたら、たった今、またピンポーンがなって、またしてもご近所さんが、今度は西京漬を持ってきてくださった。
私があまりにも熱烈に、銀鱈の粕漬けのお礼を書いたからだろう。

ありがたや、ありがたや。
盆と正月が、いっぺんに来ちゃったみたい。
直感に従って動くと、こんなふうにいいことがある。