バッハを聴きながら
朝、山小屋の玄関のドアを開けると、やっぱりうにうにがいた。
あっちにもこっちにも、うにうに、うにうに、うにうに、うにうに。
もう、そこらじゅうに、うにうにがいる。
正式な名前はヤスデだそうで、クリーム色の体に脚がたくさん付いているから、最初はムカデかと思って身構えた。
でもムカデとは違い、刺してきたりはしないというから安心した。
ムカデは肉食性だが、ヤスデは腐植食性で、毒のある顎も持たない。
じめっとした薄暗い場所を好むらしく、雨上がりの朝は、集団でうにうにしている。
8年に一度大発生するそうで、今年はその当たり年(?)なのだ。
前回の8年前は、あまりの発生ぶりに在来線の電車を止めたらしい。
見ていて可愛いとはなかなか思えないが、まぁ、家の中とかには入ってこないので、温和な性格(性質?)をありがたく思っている。
それにしても、なぜ8年に一度なのか。
一体何のために、大量発生するのだろう。
自然界は、本当に神秘に溢れている。
うにうにをなるべく踏みたくないので、最近は下ばかり向いて歩く私。
それでも、うにうにを踏まずに歩くのは至難の業だ。
久しぶりに雨が上がってゆりねとお散歩に行きたいけど、うにうにロードをどうやって歩こうか、真剣に考えている。
昨日は、里の友人と久しぶりに会ってランチを楽しんだ。
お互い、まるで名刺交換するみたいに、自分で作った栗のお菓子を交換し合う。
私は出来立ての渋皮煮を、彼女は栗きんとんを。
どちらも、買った栗ではなく、自らが拾った栗だ。
彼女の森にある栗は山栗で、とてもとても小さい。
そんな小さな栗をせっせと剥いて、作ってくれた。
しかも、ゆりね用に砂糖を入れない、小さいサイズも作ってくれるのだ。
去年も、一昨年も、ゆりちゃん用と糸ちゃん用、2種類作って持ってきてくれる。
ベジタリアンの彼女と外でご飯を食べるときは、大体この店だ。
野菜だけで作られているとは思えないほど、ずっしりとボリュームがあって、いろんな味が楽しめる。
私も、森暮らしをしてから、お肉もお魚もほとんど食べなくなった。
だから、たまに里におりて、いわゆる「豪華なご馳走」を前にすると、驚いてしまう。
まるで自分が、殿様にでもなったようで、なんだかちょっと居心地が悪い。
昨日は、開け放った窓から金木犀の香りがした。
古い民家を美しく整えた、とても居心地の良いお店。
店主の男の人がひとりで切り盛りしているから、ついお手伝いをしたいような気分になる。
ランチプレートに、食後のデザート(モンブラン)とコーヒーもお願いし、すっかりお腹が満たされた。
帰りにノラコヤに立ち寄り、小雨が降る中、もう一度彼女と栗拾い。
今年は栗が豊作らしい。
どんぐりも豊作らしいから、山の熊たちはさぞ喜んでいるに違いない。
秋は実りを収穫して、それを保存すべく加工しなくてはいけないから、何かと忙しいのだ。
大量の栗仕事は、バッハを聴きながらやったら思いの外はかどった。
私が山小屋でかける音楽のほとんどは、バッハだ。
バッハの曲は、ベタベタと感情に訴えてこないのがいい。
森の木々たちと、ものすごく調和する。
バッハは、人間の耳には聞こえていない周波数の自然界の音を表現しているんじゃないかと思う。
だから、自然の中で聞いても全然違和感がないし、バッハをかけると、森の植物たちも喜んでいるような気がする。
宇宙的で、バッハを聴いていると大自然に溶けていきそうになる。
栗は、一晩塩水に浸けてから剥くと皮が剥きやすくなると、友人が教えてくれたので、早速試してみる。
そしてそのまま冷蔵庫に入れておいた方が、甘さも増すんだとか。
まだまだ知らない裏技がある。
きっと栗は手強い相手だから、いかに楽して剥くか、みんな試行錯誤をしているのだろう。
小雨の中拾った野良栗は、これから栗ご飯にする予定だ。
あっちでも、こっちでも、栗、栗、栗。
イガの中には、たいてい三つの栗が身を寄せ合っている。
当たり前だけど、同じ栗の木から落ちてくる栗でも、大きさはそれぞれ違う。
スーパーで売られているのは、人間が大きさを選別した結果にすぎない。
大きい栗と小さい栗、形も様々で剥きにくいと思うけど、本来作物とはそういうもの。
そのことを、この歳になり、自分の体を使って理解し、納得する。
それが、とてもとても大事なこと。
友人が作ってくれた栗きんとんには、ちゃんとゆりね用の小さいのにも、茶巾でしぼった跡がある。
食べるのが勿体無いくらい、見ていてほのぼのする。
なんて優しい人なんだろう。
だから、あんなにも美しくて、繊細な彫刻作品が生み出せるのだと思う。
本日は、栗づくしの日曜日だ。