『にじいろガーデン』
私が物心ついて最初に味わったのは、理不尽さだった。
どうして自分はこの家に生まれたのか。そのことを、幼い頃からずっと考えていた。
家族だから、血がつながっているから、分かり合えるし、愛し合える。
それが、そもそも幻想にすぎないのではないかということに、私はかなり早くから気づいていた。
血に寄りかかり、甘えてしまうと、悲劇が起きる。
私は決して、天真爛漫な少女時代など過ごしていない。実際はむしろ、その真逆だった。
そんな現実が背景にあってか、気がつくと私は、多かれ少なかれ作品の中でも家族というものを描くようになっていた。
『にじいろガーデン』は、泉と千代子、ふたりの女性が愛し合い、自分たちの子どもを育てながらタカシマ家という新しい家族を作っていくお話だ。
泉は男性との結婚に失敗しているし、千代子は自分の生まれ育った家族の価値観になじめない。
当たり前に家族を愛せるというのは、とても幸せなことであると同時に、幸運なことでもある。
幸運を手にした人にとっては当たり前でも、そうでない人にとっては奇跡としか言いようがない。
そんなふたりが、駆け落ちし、マチュピチュ村という新たな場所で、子育てをしながら少しずつその土地に根っこを張り、たくましく生きていこうと奮闘する。
幸せな時代があれば、悲しみに打ちひしがれる時代もある。
作品を書き終わった今、家族とは、共に笑い、泣き、同じものを食べ、一緒に眠る、そういう日々の積み重ねのみによってできる庭のようなものではないかと、改めてそう感じるようになった。
ただ自然に任せているだけでは、やがて庭は荒廃し、すたれてしまう。美しい庭は、決して一日で完成するものではない。
けれど、日々こつこつと草むしりをしたり水をやったりして愛情を注いでいれば、やがて美しい花の咲く季節が訪れる。
それでも、花が咲き乱れる季節がずっと続くわけではなく、時にはすべてが死んだように見える冬の時代もやって来るだろう。
そういう厳しさにめげることなく、それでもせっせと土と向かい合えば、また小さな芽が顔を出し、美しい季節が巡ってくる。
家族というのも庭と同じで、自然に成り立つものではなく、そこに人の手による努力が加わって、はじめてその姿を現す。
そういう意味では、家族とは人工のもの。
自然という血のつながりはきっかけに過ぎず、その後をどう理解しあって前に進むかが、家族としての正念場であると思うのだ。
ずっと家族という不可解なものに向き合ってきたけれど、この作品が、自分の中ではひとつの終着点のように感じている。
家族とは、血のつながりではなく、いかに幸せな時間を共有したかだ。
『にじいろガーデン』を書くことができて、本当によかった。
私が人生の最初に味わった理不尽さは、私を、物語という世界に導いた。そういう面では感謝している。
そして、私がこの作品でもっとも伝えたかったのは、人生にはいくらでもやり直しがきくということ、なのではないかと思う。
人生に間違いは起こりうるもの。けれど、そこから抜け出す道は、絶対にある。家族とは、自分の手で作るものなのだから。
泉と千代子が、そうしたように。
泉が、幸せでありますように。
千代子が、幸せでありますように。
草介が、幸せでありますように。
宝が、幸せでありますように。
私は、高島家のメンバー四人が、それぞれ大好きだ。中でも、宝の明るさは、ぐんを抜いている。宝には、大いに助けられた。
『小説すばる』担当の栗原彩香さん、単行本担当の伊礼春奈さんには、本当に本当にお世話になった。
各章ごとの打ち合わせのたび、毎月、仮住まい中だった鎌倉の山奥まで足を運んでくださった。
おふたりが担当でなければ、この作品は決して生まれていなかったのだ。
つくづく私は、優秀な編集者に恵まれている。そのことを、心から誇りに思っている。
装丁の大久保伸子さん、装画の西淑さんをはじめ、この本の誕生にかかわってくださったすべての方に、感謝申し上げます。
この物語が、読者の方にとっての心の庭になれることを願ってやみません。
2014年10月1日
小川糸