雪あかり
結局、丸3日、外に出られず山小屋で過ごした。
普段から、一週間くらい籠城できるだけの保存食は、常備している。
だから、特に困ることも思いつかない。
唯一、温泉に行けないのだけは辛かった。
でも無理して山を下りて戻れなくなると大変なので、ここは潔く温泉をあきらめ、冬の山小屋から雪景色を堪能する。
これほどベッタリ山小屋と過ごすのも、初めてかもしれない。
その間は、ゆりねの散歩もお休みした。
ちょっと前、里の本屋さんで偶然見つけたのが、『独り居の日記』という本だ。
どんな著者かも知らず、けれど猛烈に気になって、その本を迷わず連れて帰ってきた。
書いたのは、メイ・サートン。
カバー写真には、新聞やテレビや電話などが雑然と置かれた仕事机と、その向こうに広がる庭の一角が写っている。
冬ごもり第一日目の午後から読み始めた。
もう、この本以外の選択肢などあり得なかった。
本は、「九月一五日」という日付から、唐突に日記形式で始まる。
けれど私には、それがいつの9月15日なのかはわからない。
最初の日の日記に書かれている言葉。
「何週間ぶりだろう、やっとひとりになれた。“ほんとうの生活“がまた始まる。奇妙かもしれないが、私にとっては、いま起こっていることやすでに起こったことの意味を探り、発見する、ひとりだけの時間をもたぬかぎり、友達だけではなく、情熱かけて愛している恋人さえも、ほんとうの生活ではない。」
読み進めるうちに、著者はパンチという名のオウムと共に暮らしていることや、そこが相当山深い土地であることがわかってくる。
途中から、私はまるで、気心の知れた仲のよい隣人の日記を読ませてもらっているような気持ちになった。
読むごとに親近感が膨らみ、まるで彼女の言葉たちが、おいしい水を飲むように、スーッと心に馴染むのだ。
なんの違和感もなく、私は彼女の言葉を理解することが可能だった。
彼女は、詩人であり、小説家であり、エッセイストでもある。
自らの同性愛を告白したことで、当時、働いていた大学を解雇され、その傷心を胸に、全く未知の土地に移り住んで、18世紀に建てられたという古い家を住まいに日記を書き始めた。
訳者のあとがきを読んで知ったが、当時彼女は58歳で、本が出版されたのは、ちょうど私が生まれる頃だ。
書くことと庭を愛することが暮らしの核となり、そのそばには常に生き物がいる。
日々変化する自然の姿に美しさを見出し、孤独を楽しみ、静寂に耳を澄ます。
そうだそうだと、何度も頷きながらページをめくっていた。
真っ白い雪のおかげで、夜になっても外が明るく感じる。
久しぶりに味わう雪あかりの感触だ。
懐かしくて、胸が締めつけられそうになる。
またひとり、同じ森の民として生きる心強い友ができたようで嬉しくなる。
彼女の日記の中に、こんな文章がある。
「私にいわせれば金というのは食物のように、私を通して流れ、得られるままに費やされ、ふりまかれ、花や本や美しいものに姿を変えられ、創造する人々や困っている人々には贈られるべきものだ。」
そして彼女は、こうも書いている。
「私の持っているものとは、友人という偉大な富と、自然に対する非常に強い愛である。決して無一物ではない!」
こんなふうに、実際にはもう亡くなっている著者と、新鮮な出会いを果たせるのだから、本ってやっぱり素晴らしいと思う。
そんなわけで、雪のおかげで、私はとても幸福な時間をメイ・サートンと共に過ごした。
今回の雪は、ふわふわで、まるで泡のように軽い。
もちろん、雪が降ると大変なことは山ほどあるけれど、やっぱり雪は大好きだ。
なんだか、見ているだけでホッとする。
日常を、非日常に変えてくれる雪。
森の木々たちも、雪化粧をして美しく見える。