お金の使い方

春のそよ風と秋のそよ風では音が違う。
数日前、そのことに気づいてハッとした。
正確には、「そよ風」ではなく「葉がすれ」の音だけど。

春の音は、しゅわしゅわしゅわしゅわ、と角のない優しい音がする。
だって、葉っぱがまだ芽吹いたばかりで柔らかいから。
それに対して秋の音は、カサカサカサカサ、と少し硬質な音がする。
夏を越した木々の葉は硬くなり、乾燥しているからだろう。
そんなことに、今まで気づきもしなかった。

木によっては、もうすでに色を変え始めて、風が吹くと、ハラハラと葉っぱを落としている。
前にも書いた通り、自然はかなりせっかちだ。
もう、冬に向けての態度に変えている。
あと一ヶ月もすると、森は赤や黄色の葉っぱに覆われて、あっという間に裸木になるのだろう。

森暮らしを始めて、お金の使い方が変わった。
例えば、素敵なお皿を見つけたとする。
欲しいなぁ、と思う。
でも、そこで一回立ち止まって考える。
このお皿で、植物の苗がいくつ買える?
大体、一つのポットが300円くらいだ。
そうすると、その値段で幾つの苗が買えるか計算できる。
そして私は考えるのだ。
この一枚のお皿と、いくつかの植物の苗、どっちがより私を幸せにしてくれるだろうか、と。

こうして、最近の私は、もっぱら、植物の苗にお金を使っている。
小さな植物たちが根っこを張り、芽を伸ばし、花を咲かせてくれることが、何よりも嬉しい。

でも、そんな喜びも、一晩でシー(鹿)に食い荒らされることも、もちろんある。
雪解け以降、乾燥ヒトデやら、唐辛子やら、クローブやら、色々試したけど、なかなか効果が長く続かない。
シーたちは(もう、鹿と呼ぶのすら忌々しい)、もうすぐ花が咲きそうだ、というタイミングを狙っているかのようにいいところで蕾を齧ったり、まるで私を小馬鹿にするみたいに、植えたばっかりの苗を地面から掘り返したりする。
朝起きて、せっかく植えた植物たちが無残に荒らされているとガッカリだ。
もう、食べるんだったら残さずに全部食べろ、と怒りたくなるほど、ちょっと味見しただけの場合もあるし。
自分を喜ばせるために植えているのか、それともシーたちを喜ばすために植えているのかわからなくなる。
昨日なんて、一家総出でやってきて、私の庭の植物を一心不乱にむさぼっていた。

それでも、シーたちが口にしない薬草が何種類かある。
今年は、何を食べて何を食べないかの実験だったから、来年は、シーたちに食べられない植物をまた一から植えて、成長を見守ろう。
もう、ここから先は来春に向けての作業だ。

面白いのは、同じ時に買ってきた同じ種類の苗でも、シーに食べられるのと食べられないのがあること。
あと、同じエキナセアでも、花の色によって食べられたり、食べられなかったり。
私は、もしやシーはピンクが嫌いなのでは? と思っているのだが、果たして真相はわからない。
ある日、ピンクの花も食べられてしまうかもしれない。

インターネットの情報は、それほどあてにならないこともわかった。
鹿が食べないとされている薬草も、まんまと食べられたりする。
鹿が食べないと説明に書いてあった薬草でも、いとも容易く食べられるなんてしょっちゅうだ。
そりゃそうだ。人間にだって、人によって好き嫌いがあるし、匂いに敏感な人もいれば鈍感な人もいる。
鹿だって同じことだ。
生息する場所の環境によっても違ってくるし、それぞれの個体によっても違う。
同じ薬草でも食べるシーと食べないシーがいて、それはもう本当にやってみるしかない。

このシーたちとの静かな攻防戦が、来年以降も続くと思うとうんざりする。
シーたちに食べられた苗の分の請求書を、一年分まとめて出せたらいいんだけど。
まぁ、シーに怒っても仕方がないから、気長にやっていくしかない。

最近、苗以外で買ったものは、これ。

草刈り用の鎌。
これがなかなかの優れもので、急に草刈りをするのが楽しくなってきた。
道具は、大事だ。
うふふ、ちょっとずつ、自分の体に合った庭仕事の道具たちが増えている。