ゆりねと私

仕事を終えて、食事を済ませ、コーヒーを淹れ、空が晴れていると、私は決まって森へ行く。
まぁ、森といっても庭の一角なので、目と鼻の先だ。
そして、コーヒーを飲みながら本を読む。
名付けて、森読。
今読んでいるのは、『カヨと私』(本の雑誌社)。
内澤旬子さんの新刊だ。

小豆島へ移り住んだ内澤さんは、独り、カヨと暮らし始める。
カヨは、真っ白いヤギでメス。
食べるためではない。

カヨは少しずつ人間に近づいて、内澤さんは少しずつヤギに近づいていく。
段々と時間をかけて内澤さんに打ち解けるようになったカヨは、内澤さんの腿に頭を預けたりするようになる。
その描写が、とても可愛い。

内澤さんはカヨが喜ぶ顔を見たいがために、海に連れて行ったり、椿の花を食べさせたり。
車の運転が苦手なのに、わざわざ箱型のバンに乗せて遠くのカフェまで行ったりもする。
カヨの目や舌、体全部を通して、内澤さんも「ヤギ」を擬似体験しているみたいだ。
でも、カヨはヤギで、21日周期に発情期がやってくる。

内澤さんは、わざわざカヨとフェリーに乗り、遠出できるギリギリの場所まで、カヨの欲求を叶えるため、オスのヤギとのお見合いを実行する。
妊娠した結果、カヨが死んでしまったらどうしようと不安になったり、わかるわかるの連続だった。
私も当初、コロのお嫁さんとしてゆりねを迎えたのだ。
コヤギが生まれたら、コヤギの方が可愛くなってカヨへの愛情が薄れてしまうことを心配したり、その気持ちが手に取るようだった。

カヨの妊娠、出産。
そして、生き物の仲間がどんどん増えて。
内澤さんもまた、「動物と友だちがおったら生きていける」ジャンルの人だなぁ、と思った。
カヨの出すお乳でヨーグルトやチーズを作ってみたり、まだ途中までしか読んでいないけれど、カヨという生き物を通して、内澤さん自身の人生がどんどん開拓されていくのが伝わってくる。

(実は読めないのだけど)漫画みたいにスイスイ読み進められるのが、とても楽しい。
しかも、素敵なイラストは内澤さん自身によるものと知って、二度驚いた。

ゆりねは、この夏で8歳になり、おそらく、ちゃんと長生きしてくれても、人生の折り返し地点は過ぎているだろうと思われる。
歳を取るってこういうことなんだなぁ、と最近、つくづく感じるようになった。
体の不調だって出てくるだろうし、好き嫌いも、前よりは激しくなっている気がする。
車に乗せろと要求するゆりねはものすごく頑固で、毎回の押し問答に心から辟易するのだが。

先週も、ゆりねのカイカイが止まらなくなったので、最寄りの動物診療所に行った。
きっと、これからそういうことがどんどん増えていくのだろう。

今までは、ゆりねが私の人生に付き合ってくれたから、これから先は私がゆりねの人生に寄り添ってゆりねファーストで生きていこうと思って山小屋を建てたのに、思った以上にゆりねは都会っ子だった。
見慣れぬ鹿の気配に怯え、時に威嚇し、大好きな仲間(犬)とは会えず、ストレスを溜めている。
言っていることとやっていることが全然違って、ゆりねには本当にごめんなさいなのだけど、それでもゆりねは私のことを許し、好きでいてくれる。
本当に寛大だ。
私はゆりねみたいな人になりたい。

内澤さんが、一度でいいからカヨと一緒に草を食べてみたい、と書かれているように、私も一度でいいから、ゆりねと思いっきり走ってみたいなぁ。

私は最近つくづく、人生を幸せに生きるコツは、ひとり遊びができるかどうか、で決まるのではないかと感じているのだけど、そこに一匹動物がいたら、それはもう鬼に金棒というか、パーフェクトなんじゃないかと思っている。
内澤さんの、「独りと一匹」という書き方が、とても美しい表現だと思った。

独りだけど、別に孤独ではない。
寂しくもない。
野生動物とか人とか宇宙人とか、瞬間的に怖いと感じる場面は確かにある。
でも、それと漠然とした不安とは、種類が違う。
都会に生きている方が、よっぽど私は不安を感じる。
何よりも、ここでは森の木々たちが、私やゆりねを見守ってくれている安心感がある。
木の一本一本とも、友達になれたらいい。

今日は、一日の終わりに、赤ワインを飲みながら蝋燭の灯りだけつけて、大音量でオペラを聴いた。
動物と、音楽と、本(物語)があったら、森の中でも結構楽しく生きていける。
この夏で、そのことがよーくわかった。
そしてたまに、気心の知れた友人が卵やお菓子を持って訪ねてくれたら、申し分なしだということも。

明日も晴れて、また森でこの本の続きを読むのが楽しみだ。 
フライングして先にあとがきを読んでしまったのだけど、内澤さんとは、なんだか同じような紆余曲折を経ながら人生を歩んでいるような気がした。