音か、本か、

先日、ノラコヤからすぐの産直に行ったときのこと。
ん? 一瞬ギョッとして、目を疑った。
小さな白菜が、一個900円?
まさかと思い、もう一度確かめたものの、やっぱり900円となっている。
あまりに背筋が寒くなり、二度見どころか三度見までしてしまった。

ここは、大都会の高級スーパーではない。
すぐそこの畑でとれた地元の農産物を売る直売所なのだ。
とにかく土が柔らかくなったらすぐに畑を始動せねばと、硬く心に誓って店を出た。

そんなわけで、この冬、私は蕪と小松菜ばかりを交互に食べている。
どちらも好きだし、白菜ほどお高くはない。
蕪は特に、葉っぱも丸ごといただけるのがありがたい。
数日前、蕪と白花豆、じゃが芋の「白のポタージュ」を作ったら、めちゃくちゃ美味しくできた。
去年植えた月桂樹の葉っぱが、素敵な香りを演出する。
寒さに弱い月桂樹なので、ノラコヤの土地にうまく根付いてくれることを祈るばかりだ。

あまりに待ち遠しいので、近くのナーセリーまで偵察へ。
わかってはいたけど、見るだけでは満足できず、結局、苗を連れて帰ってくる。
スミレちゃんも、デージーちゃんも、なんてかわいいのだろう。
植える前、ホーローのバッドに入れて待機している姿だけでも、あまりにもかわいくて胸の奥がキュンキュンする。
少しずつ、野原のような庭を目指して、植物たちを植えていこう。

ノラコヤ周辺にも、シーがいないわけではないのだけど。
お山のシーたちよりは手強くはないだろうと楽観している。
里では、シーよりもカラスの方が厄介だ。

半月ほど前からオーディオの調子が悪く、しばらく音楽が聴けない状態が続いていた。
山小屋では、アンプにスピーカーを繋いで使っている。
ノラコヤでも同じようにしようとすると配線とかいろいろややこしいし、以前から持っていたボーズのポータブルワイヤレススピーカーでいいや、と思っていた。
小さいし、ワイヤレスだし、その割に音もいいし、私にはそれで十分満足だったのだが、最近どうもご機嫌斜めで、すぐに音が途切れてしまう。
おそらく、買ってから10年近く経っているかもしれない。
そろそろ寿命かな、と思いつつ、しばらくそのままで暮らしていた。

でも、音楽がない生活って、本当に本当につまらない。というか、私には苦痛だった。
運転以外でのバックグラウンドミュージック的な聴き方はしないので、基本、音楽をかけるときは集中して音楽に耳を傾ける。
仕事が一段落した後とか、森を見ながらリラックスしたいときとか、音楽は、その場の空気を変えるのにとても有効だ。
音楽を聴くことで、パッと気分転換ができる。
もちろん、夕方から食事をするときも、音楽は必需品。

NHKで放送された晩年の坂本龍一さんのドキュメンターで、坂本さんは、音楽を聴くにも体力がいるのだ、というようなことを語られていた。
確かに、体の調子が悪いとき、音楽は受け付けない。
元気じゃないと、音楽は楽しめないのだ。
シーンとした病室で、音楽も聴く体力がなく、でも何か音が欲しくて、坂本さんは雨の音の音源を探して、ずっとそれを聴いていたという。
わかる気がする。

音楽の聞けない暮らしに耐えきれず、ノラコヤに新しいスピーカーを買った。
今まで使っていたのと同じようなワイヤレスタイプだけど、今回はボーズじゃなくてマーシャルに。
ロックなんてまず聴かないからマーシャルで本当にいいのだろうか、という一抹の不安はあったのだが、繊細なピアノの音色も迫力のあるオペラの声も、とてもいい感じで申し分ない。
Bluetoothで簡単に繋げるし、ものすごく音響にこだわっている人間でもないので、私にはこれで十分だ。

ときどきふと考えるのだが、音(音楽)のない生活と本(文字)のない生活、どちらかを選ばなくてはいけなくなったら、私はどっちを選ぶだろう。
究極の選択ではあるが、私は多分、音の方をとるだろうな。
もし目が見えなくなって本が読めなくなったとしても、耳から音を聞けるのだったら、幸せかもしれない。
それに今は、耳で聴く本もたくさんあるし。
聴覚は、死ぬギリギリまで機能しているというから、私は人生の最後の最後まで、美しい音楽を聴いて過ごしたい。
そしていざ死ぬときは、ラヴェルの『ボレロ』がいいんじゃないかと思っている。