弁造さん

またもや大雪が降った。
朝起きたら、車の上に1メートル近い雪が積もっている。
そんなわけで、また冬ごもりだ。
山小屋から出られない。

雪に閉じ込められると、私は決まって同じ森仲間の本を開く。
この冬は、弁造さんと過ごす時間が長かった。
一冬かけて、ちびりちびり、『庭とエスキース』を読む。

弁造さんは、北海道の丸太小屋で、自給自足の暮らしをしている。
庭には、果物のなる木を植え、タニシを育てる沼も作った。
著者の奥山淳志さんは私と同世代の写真家で、彼は住まいのある岩手から、犬のさくらを連れてフェリーに乗り、季節ごとに弁造さんの小屋を訪ねる。
そして、14年にもわたって、弁造さんと時間を過ごし、その姿を写真に収めた。

弁造さんは、本当は画家になりたかった。
でも、家族の借金を背負い、画家にはなれなかった。
全部で10畳ほどしかない簡素な小屋で暮らしながらも、農作業の合間などに、完成することのない絵を描き続けた。

弁造さんと著者の距離感が、なんとも言えず心地いい。
ふたりは年代も違うし、生活環境も違う。
弁造さんは他愛のない冗談を言ってふざけてばかりいるし、著者が弁造さんをものすごく理解しているかというとそうとも言えない。
それでも、同じ時間と空間を共にし、著者が来る途中でスーパーに寄って買ってきたおでんなんかを食べる。
ふたりの間を取り持つのは、もっぱら黒い毛色をした犬のさくらだ。

昨日、本の終盤を読んでいて、とうとう弁造さんが亡くなった。
私はまるで、隣の村に住む旧知の知り合いが亡くなったという知らせを受けたみたいに悲しくなった。
弁造さんが暮らす北海道の新十津川町の自然と、私が暮らす山小屋は、生えている植物や季節の感じがとてもよく似ている。
だから、より弁造さんを身近に感じたのかもしれない。

実際の弁造さんは、大正9年に生まれ、北海道の開拓時代を経験した。
若い頃は冬になると都会へ出稼ぎに行き、日本の高度経済成長も目の当たりにした。
生涯、独身だった。本格的な絵の勉強をするため、東京の美術学校に通ったこともある。
夢は絵の個展を開くことだったが、その夢が叶うことはなかった。

弁造さんの庭には、針葉樹も紅葉樹も植えてある。
自分の胃袋を自らの庭でまかなうためには何をどれだけ植えて育てれば良いかを真剣に考え、試行錯誤の末に自給自足の暮らしを実現した。
育てる作物の中には、小鳥たちの食べ物もちゃんと含まれていた。

ほんの身内しか知り得なかった弁造さんというひとりの人間の人生が、著者の奥山さんとの出会いによって、多くの人に知られていく。
弁造さんの人生に、光が当たる。
実際に弁造さんが亡くなったのは、もう12年も前だというのに、私にとっては、弁造さんは昨日亡くなったのも同然なのだ。
そう思うと、なんだかとても不思議な気持ちになる。

東日本大震災の、福島の原発事故を目の当たりにした弁造さんの言葉が、とても印象に残っている。
弁造さんが暮らした丸太小屋は、弁造さんが亡くなって程なく、解体されたそうだ。
でも、弁造さんが残した庭の山桜は、きっとまだ残されているような気がする。
今年の春も、ますます美しい花を咲かせてくれるといいと思う。

今日は午後、ミニスキーを履いて近所を少し散歩した。
本格的なスキーだと靴を履いたり面倒なので、ミニスキーがあったらいいなと思ったら、大人用のミニスキーがあったのだ。
登山用のストックを両手に持って、雪道をミニスキーで滑った。
これはなかなか楽しい。
誰かが私を車に乗せて、坂の上まで連れて行ってくれたら、尚のことありがたいんだけど。