宗教について

週末、久しぶりに大都会へ。
人がたくさんで、驚いた。
電車を降りた瞬間、匂いと色に圧倒される。
ふだんは嗅ぐことのない、様々に混じり合う人工的な匂いが確かにあった。
そして、多くの色が目に飛び込んでくる。
それは、都会を離れてから5年経って、初めて得られた感覚だった。

日曜日ということもあったのかもしれないけれど、男性がかなり女性化しているとも感じた。
女性化というか、中性的になっているというか。
ファッションや立ち居振る舞いに、女性性を感じた。
平日のビジネス街に行ったら、また違う見方になるのかもしれないけど。
ずっと都会にいたらわからない動きでも、こうして離れて暮らしていると、変化に気づくことがあるのだ。
とにかく、本当に人が多くて、目まいがしそうになる。

スマナサーラ長老との対談については、まだ、自分自身がきちんと消化できていない。
仏教というものが、奥が深く難しいということだけは、体感した。
そう簡単に答えを出してもらえるわけではない。

私の周辺には、ヴィパッサナー瞑想をしている友人が多くいるが、私自身はやったことがない。
自分自身をとことん見つめ、苦しみや痛みを伴う瞑想だ、ということだけは耳にしている。
仏教に詳しいわけでもなく、ことさら熱心に仏教を学んでいるわけでもなく、たまたま出会った慈悲の瞑想が仏教の教えにのっとったものだった、というだけのこと。
もし「あなたの信じる宗教はなんですか?」と聞かれたら、少し間を置いてから、私は自然崇拝と答えるだろう。
日本に古くからあるアニミズムの世界、すべてのものに神さまが宿るとされる八百万の神という考え方が、自分にはもっともしっくりくる。

慈悲の瞑想やヴィパッサナー瞑想は、頂上へ辿り着くための最短コースだと思う。
頂上に立っている旗は、幸福に生きることであり、気持ちよく生きるにはどうしたらいいか。
すべての生命はそれを目指し、宗教というものも、人々にそれを提示するために手を差し伸べてくれているのだと理解している。
でも、いくら最短コースだとわかっていても、それを実践するには気力も体力も必要で、できない人もいる。
そのために、物語もあったりするんじゃないか、と思う。
遠回りをしても、道を間違っても、足が止まっても、来た道を引き返しても、まぁ、結果的にゴールに辿り着ければいいんじゃないのかな。
どこのルートが正解で、どこのルートは間違っている、なんてことはなくて、道なき道を、独自の方法で切り開いて血だらけになりながらゴールを目指すのだって、それはそれでありだと思う。

宗教の名の下に戦争が起きている現実は理解に苦しむが、それは、そもそもの教えではなく、解釈が間違っているんだと思う。
かの国の大統領がそうであるように、自分の都合の良いように拡大解釈したりすることが、問題なのではないか。

だから、生身の人間が神の教えを代弁することに、限界があるようにも感じる。
そして、もしかすると宗教の教えを誠実に伝えることができるのは、むしろAIの方が得意なんじゃないかと思った。
現に、仏教国ブータンでは、日本で開発されたAI仏教やAIブッダが、正式に導入されている。
私の悩みも、今度、AIブッダに尋ねてみよう。

私は日帰りでの東京出張だったけど、ゆりねとオハナはホテルに一泊、泊まりがけで預かってもらった。
オハナは初めてのホテルで、私の心配事は尽きなかったのだが、杞憂に終わった。
ゆりねはいつも通りフレンドリーだったが、オハナはそれ以上に超フレンドリーだったらしい。
人にも犬にもものすごく社交的で、来たばかりの頃のオハナを知っているドッグトレーナーさんは、本当に同じ犬なのか? と心底驚かれていた。
何回か、ラインに犬たちの様子を送ってくれたが、オハナは満面の笑みを浮かべてお散歩を楽しんでいた。
オハナ、この半年で、本当に成長したものである。
そして、本人にその意思があるのかどうかはわからないけど、その成長を促してくれたのが、ゆりねなのだ。
オハナは、ゆりねの振る舞いを見ながら、多くのことを学んでいる。

誰もいない静かなノラコヤにひとりで泊まる私の方が寂しく、メソメソしてしまった。
2匹が帰ってくる翌朝が、待ち遠しくてならなかった。

次の日は、朝から黙々と庭仕事をやった。
お日様に身をさらし、植物たちに触れ、汗を流し、土の匂いをたっぷり嗅いで、気持ちがスッキリした。