ナマステ〜
「ナマステ〜」
ただ今、インドにいる。
目の前に広がるのは、アラビア海だ。
大親友で画家の佐伯洋江ちゃん(ぴーちゃん)が、なんとなんとムンバイの大きなギャラリーで個展を開くことになり、はるばる日本から応援に駆けつけた。
コロナ後初の海外旅行は、インドになった。
ムンバイ、すごい。
空港からの道路で、もうめげそうになる。
無秩序、喧騒、混沌。
もう、私の受け皿を完全に超えている。
あまりのすごさに、ポカンとしてしまった。
ここで生きていくのは、さぞ大変だろう。
以前行った南インドとは、また違った底知れないエネルギーを感じる。
この大国が、これからどんどん世界をリードしていくという。
中でもムンバイは、その中枢をなすような巨大都市だ。
前回海外に行ったのは、ベルリンだった。
旅行というより、もっと切羽詰まった何かを背負って、行って、すぐにゆりねを連れて帰ってきた。
コロナが、私たちのすぐ後ろを猛スピードで追いかけてきた。
私は、走るような逃げるような気持ちで、日本に戻った。
あれから4年半。
私は日本に戻って森暮らしを始め、ぴーちゃんもまたベルリンを離れて南仏に移った。
その間に、お互い、本当に色々色々色々あった。
ベルリンに暮らしていた頃は、毎日みたいに顔を合わせていたのに、それが当たり前の日常だと思っていたのに、人生、本当に何が起こるかわからない。
私が、日本に戻ることを明かした時、ぴーちゃん、トイレにこもって泣いたっけな。
私は何度か、ぴーちゃんを泣かせたことがある。
現代アートの作家が、自らの生活と制作を両立させるのがいかに困難なことか、私はベルリンに暮らすことで学んだ気がする。
みんな、本当に必死になって自分の作品を生み出しているけれど、世の中に認められるのはほんの一握りで、制作をしながらそれだけで生きていくのは、とても大変なことだ。
どの世界もそうだろうけど、現代アートの分野は、特にそれが顕著だと思う。
ただいい作品を作れば評価されるかというと物事はそう単純でもなく、時には一枚の絵が投資の対象になったりして、純粋にその絵が好きだから手に入れる、というものでもなくなっていく。
私自身は、その絵とか作品に金銭的な価値があるからとか、将来高く売れるから、とかいう理由で絵や作品を所有するのはナンセンスだと思っている。
どんなに値打ちがあったとしても、箱にしまわれたままの絵なんて、可哀想すぎる。
絵や作品は、誰かに見られてこそ意味があるのであって、それがそれを作った人の一番の喜びであり、作品そのものも嬉しいに決まっている。
私の山小屋にも、ぴーちゃんの絵が飾ってある。
私にとって、作品はその人の分身というか、その人そのものだと思うから、ぴーちゃんが山小屋にいるのと同じことだ。
他の人の作品も、同じ感覚で捉えている。
だから、私は山小屋でもひとりじゃないし、常に友人たちに囲まれているから賑やかだ。
そんな感覚も、ぴーちゃんと知り合えたから、得ることができた。
私とぴーちゃんを繋いでくれたミユスタシアは、もう生身の人間の姿としては生きていない。
でも、絶対に今日という日を祝福してくれている。
今夜は、オープニング。
展示会のタイトルは、「DIVINITY, DUALITY AND THE COSMOS」。
どういう意味? ってぴーちゃんに聞いたら、「神聖、二重性(陰陽)、そして宇宙」みたいな感じかなぁ、と教えてくれた。
なるほどね。
確かに、私たちは、そういうことに興味がある。
お互い、励まし合って、ぴーちゃんは絵を、私は物語を、共に描いて(書いて)生きている。
今夜ギャラリーに行ったら、いろんなことを思い出し、感極まって泣いてしまうかもしれない。
日本から、ぴーちゃんを応援する素敵な人たちがムンバイにたくさん駆けつけた。
人徳だなぁ。
彼女の作品とまっさらな気持ちで会いたいので、今日は午後、ホテルのスパでアーユルヴェーダを受けてきた。
今夜は、ミユスタシアと共に、ぴーちゃんの絵を心から楽しもう。
そういえば朝、一緒にホテルの朝食を食べながら、なんでもない世間話をしていて、涙が出てきた。
ただただケラケラ笑って、冗談を言い合って、そういうのがとてつもなく幸せに思えたのだ。
もう、胸が苦しくなるくらい懐かしいと思った。
ムンバイは、私たちが普段暮らしている場所のちょうど真ん中の辺り。
スパの前、ホテルのプールで泳ぎながら、こんな時間を与えてくれたぴーちゃんに、心からありがとうを伝えたくなった。
ムンバイで個展を開催できるなんて、本当に本当に素晴らしいことだよ!
明日は、ムンバイからヒマラヤへ移動する。
まだ見たことのない世界へ、また一歩、足を前に踏み出す。
(写真は、トリスタン)