たわわわわ
朝の気温、11度。
寒いなぁと感じつつ、今日は休日なので朝からノラコヤへ。
お山は、最高気温も17度の予報だ。
不思議だなぁ、と思うのは、どんなに夏が暑かろうが、秋のお彼岸にピッタリと合うタイミングで彼岸花が咲くことだ。
ちょっと前まで、全然そんな気配すらなかったのに。
今年も、今日という日に合わせたかのように、彼岸花が咲いていた。
この花を見ると、秋を感じる。
秋といえば、ヤギ小屋の向こう側にある栗の木が、たわわに実をつけている。
たわわどころの騒ぎじゃない。
たわわわわ、だ。
栗というのは、なんてエネルギッシュなのだろう。
だって、葉っぱもわさわさ、イガも立派、そして実もムッチムチ。
これを、毎年毎年繰り返しているのだ。
なんて太っ腹!
たくさんの恵みを、惜しみなく分け与えてくれる。
最近思うのだが、恵みはありがたく頂戴するのが、相手(この場合は栗の木)も嬉しいのではないだろうか?
せっかくの実りを無駄にされるよりも、誰かに喜んでもらった方が向こうも幸せを感じるように思うのだ。
勝手な解釈かもしれないけど。
だって、自分だけのことを考えたら、あんなに実る必要はないような気がする。
見ていると、イガは、バサッ、バサッ、とすごい勢いで落ちてくる。
あれがまともに当たったら痛いだろうなぁ。
だって、イガなのだ。
でもって、のんびりしていると、先に虫に食べられてしまうから、落ちたらなるべく速やかに拾うべし。
そんなわけで、今日は野良仕事に加えて、栗拾いも。
忙しい。
もう少ししたら、柿もいい頃合いになるから、ますます忙しくなる。
今日は、草むしりをしていたら、近所のおばあさんが庭にやって来た。
最近、東京から越してきたとのこと。
夏の紫陽花がきれいだったと、しきりに褒めていただく。
今、その紫陽花はほんのりピンク色になっている。
庭に必要なもの。それは、秩序。
秩序がなければ、庭にならないのだということを、最近しみじみ痛感する。
だから、せっせと草をむしって、秩序が生まれるよう励んでいる。
目指すは、おおらかで、朗らかな庭。
庭には、それぞれ固有の人格のようなものがある。
ノラコヤの庭も、だんだんとそれが芽生えてきた。
だから、愛しい人に会いたくなるような気持ちで、ノラコヤの庭に行きたくなる。
そこに生えている植物たちをただぼんやり見ているだけで、オキシトシンが湧いてくるのだ。
一昨日、ノラコヤの建具に張った和紙を漉いてくださった女性がノラコヤを見に来てくださったのだが、紙漉きの仕事というのは、大半が不純物を取り除く作業に費やされるのだという。
一ヶ月のうち、20日間は水の中でひたすらゴミを取る時間に当てられ、実際に紙を漉くのはたった2日だけというから、驚いた。
もちろん、人によるのだろうけど。
でも、だからこそ、彼女の漉く紙は、限りなくまっさらで、清らかで、静謐な佇まいなのだと思った。
昔は、農家さんの冬の手仕事として、紙を漉いていたのだとか。
庭仕事もそうかもしれない。
ただただ雑草をとって、とって、とって、とって、ものすごく地味な作業の結果として、美しい庭が生まれる。
私は、自分の庭を雑草一本生えていないピカピカの庭にしたいとは思わないけど、植物たちを健やかな状態にするためには、やっぱりある程度は人が介入して秩序を生み出さないといけないのだと思うようになった。
夕方、ゆりねと森を歩いていたら、どこからか懐かしい匂いがする。
ご近所さんが、薪ストーブに火を入れているのだ。
なんともホッとする、冬を感じさせる匂い。
夜になり気温が下がってきたので、私もちょっとだけ薪ストーブを使うことにした。
今シーズン初の火入れの儀式を、厳かに執り行う。
夏の間、せっせと貯めていた牛乳パックや段ボールを焚きつけにした。
わが家の薪の燃える匂いを確かめたくなり外に出たら、びっくり。
星が、すごいことになっている。
まるで真冬の夜空のよう。
昨日が新月だから、月明かりもなく、星が思い思いに輝いている。
そういえば最近、星を見るのを忘れていたかもしれない。
火を見て、星を見たら、なんだか胸のモヤモヤがスッキリと片づいた。
これから冬至に向けて、ぐんぐん陽が短くなる。
ノラコヤでつめる花もほとんどなくなり、もしかすると今日が最後かも。
本日は、茄子を収穫した。
秋は、感謝して実りをいただく。