手巻きピザ

連休が終わり、静かな日常が戻ってきた。
山を下りると混んでいるので、私は森にこもってひたすらひたすら土に触れて過ごす。
ようやく若葉が芽吹き始め、清々しい爽やかな風を感じながら地面に触れていると、自分が満ちていくのを実感する。

都会で暮らしている時は、満たされる、という感覚だった。
つまり、誰かや何かに、満たしてもらう。
自分を満タンにするのは他の誰かで、疲れた時は誰かにケアしてもらうのが当たり前だった。

でも、森で暮らすようになってから、自分で自分を満たすことができるようになった。
ケアも、人にしてもらわなくても、自分で自分でケアできる。
そうできるようになったのは、自然がすぐ近くにいてくれるからだ。

夢中で草取りをしていると、自分の中に紛れていた嫌な感情やモヤモヤした気持ちが、全部地面に吸い取られていくような感覚になる。
このままずーっと庭仕事だけしていけたらどんなに幸せだろう、と想像する。
植物たちは、自分でちゃんと衣替えをして、花を咲かせたかと思えば、新緑を芽吹かせ、時期が来れば潔く葉っぱを落として冬に備える。
人生のお手本だ。

草取りは、料理人にとっての皿洗いみたいなものなんじゃないか、と思う。
別に私も、闇雲に雑草が憎くて草取りをしているわけではない。
もしかしたら、取らなくてもいいのかもしれないし、雑草には雑草の役割もあると承知している。
草取りに関しては、もう完全に私の自己満足でしかない。
私以外、誰ひとり、草を取る前と取った後の違いはわからないだろう。

それでも、草を抜くと、ちょっと、地球が喜んでいるような気がするのだ。
雑草は、地球のムダ毛みたいなもの、というのが今の私の持論で、そのまま生やしていても問題はないけど、でもツルツルスベスベのお肌はやっぱり気持ちがいい。
もちろん、モジャモジャが好きなら、モジャモジャのままでもいい。
大事なところに毛が生えるのと一緒で、ここはそのままにしておいた方がいいだろう、という場所も当然ある。

草を取りつつ、いろんな発見がある。
新芽が出てきたことに気づいたり、ふわりと香ばしい土の香りに出会ったり。
遠くから見ているだけではわからない、地面のすぐ上で現在進行形で起きていることを目の当たりにすることができる。
そして、てっきり自然消滅したとばかり思っていた植物の芽がひょっこり顔を出しているのを見つけると、本当に本当に嬉しくなる。
自分が無知のせいで、去年、植えてすぐシーに食べられてしまい、可哀想な思いをさせてしまった木も、もうダメかと諦めていたら、ここにきて、小さな小さな葉っぱを芽吹かせている。
改めて、生命力の強さを感じた。
そういう子たちは、また同じ痛い目にあわせまいと、シーの嫌がる植物のそばに移植したりしている。

庭仕事がいいのは、決して終わりがないことだ。
例えば、本の場合は、ある程度、ここで区切り、ここから先はもう手を入れられません、というタイミングがやってくる。
でも、庭仕事には際限がない。
相手は生き物で、変化し続ける。
草取りもそうだけど、やってもやってもキリがない。
だから、永遠にやり続けてしまうのだが。

だいぶ陽が長くなってきたとはいえ、私は夜になって庭が見えなくなると、とてもつまらないと感じてしまう。
早く朝が来て、私の植物たちを愛でたい。
夜の間に、せっかく芽吹いた葉っぱがシーに食べられやしないかとハラハラする。
朝起きて窓の外をチェックし、植物たちの生存確認するのが日課になった。
シーとの知恵較べは以前として続いており、私がほぼ全敗しているけれど、それでも、シーに対するちょっとした嫌がらせを思いついては、日々、実行している。

と、ここまで書いて、手巻きピザのことを書くのを忘れていた。
これ、すごくいい。
先日里の友人とピザパーティをした時に余ったピザの生地を冷凍しておいたのだが、それを解凍して、フライパンで焼いたら、すごく美味しかった。
ただ両面を乾いたフライパンで焼くだけで、ピザ台ができる。
庭の一角に植えたルッコラの葉っぱを摘んで、冷蔵庫にあった生ハム、チーズを挟んで、手巻き寿司ならぬ手巻きピザにすれば、立派なご馳走だ。

フライパンで焼いた台にトマトソースを塗って、玉ねぎやベーコンやチーズをのせて再度オーブンで焼いたら完璧だけど、そんなことしなくても、十分いける。
蕗味噌だけをつけて食べるのも、シンプルでよかった。

ある程度の量をまとめて作って、小分けにして冷凍しておけば、食べたい時にピザが食べられる。
これからは、常備しておくといいかもしれない。
ピザの耳のところは、ゆりねの大好物でもある。

今日は、朝から冷たい雨。
植物たちにとっては、恵みの雨だ。
芽吹いたばかりの新緑たちが、歓声を上げながら天のシャワーを浴びている。