ご機嫌ななめ

私が何日間か地方へ出張の時、ゆりねは里のペットホテルで過ごすのだが、この冬何度かお世話になったペットホテルは、本当に素晴らしかった。
「ごはん完食しました」とか、「うんちしました」「おしっこしました」などのメッセージをその都度送ってくれる他、他のワンコたちと遊んでいる様子もこまめに映像で送ってくれるので、こちらとしては本当に安心して預けることができるのだ。

多くのペットホテルは、何か事故やトラブルが発生するのを恐れ、他の犬との接触をさせないのだけど、そこは思う存分犬たちと触れ合わせてくれる。
ゆりねは人も好きだけど、犬と交流するのも大好きなので、ふだん森の暮らしではなかなか犬とはしゃげない分、そこでは大いに触れ合うことができる。

ペットホテルを営むご夫婦のところにも犬が3匹おり、そこは犬の幼稚園もしているので、常に誰かしら(?)の犬がいる。
広大なみかん畑がドッグランになっていて、犬たちは母屋とドッグランを行ったり来たりしながら一日を過ごす。

夜も、ご夫婦と同じ屋根の下にいるので安心だ。
明け方もまだ日が昇る前からドッグランに連れ出してくれて、排泄をさせてくれる。
かつて犬の幼稚園に通っていたこともあり、それと同じような空気を感じるのだろう、ゆりねは喜んでペットホテルに出向き、ホテル暮らしを満喫している。
そこでは、送り迎えもしてくれるので、もう、本当に本当に助かっている。
ただ、これほど細やかなサービスをして、ご夫婦の方が精神的にも肉体的にも参ってしまわないだろうかと、私はそのことを少し、懸念している。

ホテルから帰ってくると、ゆりねは心地よい疲れに満たされている。
「やれやれ、ワンコの相手も疲れるわぁ」とでも言いたげな表情で、自分も犬のくせに、なんだか自分が犬たちの相手をしてやってきたのだ、という態度なのがおかしい。
そして、私に対して、ちょっと素っ気ない態度をとる。

ゆりねは、自分が好意を寄せる相手(人間)には、猫のように体をすりすりとこすりつけて親愛の情を示すのだが、ホテルから帰ってきた日はそんな行為は一切せず、さっさと自分のベッドに行ってしまう。
明らかに、「私のこと置いて、自分だけどっか行ったよね!」と背中が訴えている。
「でも、ゆりちゃんだってホテルで楽しかったでしょう? いっぱいワンコちゃんたちと遊んでたじゃない」と私が言っても、「それは、それ」という感じでどうもつれない。
ご機嫌ななめだ。
仕方がないので、一日目はそっとして距離を置いたまま過ごす。
まぁ、一晩寝てしまえばいろんなことをケロッと忘れて、いつも通りになるのだけど。

同様に、ムッティもまた、しばらく私が山小屋を不在にして戻った日は、ご機嫌ななめになる。
山小屋全体が冷え切っているし、薪ストーブも同じく冷え切り、私も時間が空いたことでムッティの扱いを忘れている部分もあったりして、当然と言えば当然なのかもしれないけど、とにかくなかなか上手に炎が育たないのだ。
調子のいい時なら一本のマッチで全て順調に事が進むのに、久々の再会の時は、もう何度も何度もマッチをすって、火をつけないといけない。

ムッティと私の呼吸が、全然合わないのだ。
ムッティ自身が、私がそばを離れたことに対して、拗ねているような、ちょっといじけてそっぽを向いているような、そんな態度を感じてしまう。
ごめんねぇ、もうここから先は次の冬までずっと一緒にいるから機嫌直してよぉ、心の中で必死に訴える。

そんな時、薪ストーブにも感情があるような気持ちになるのだ。
ムッティも、次の日からは機嫌が直って、いつも通り、優秀な薪ストーブになる。

私は、山小屋の道具や家電たちにも、よく話しかけている。
特に、トイレには、使うたび、いつもありがとう、とか、ご苦労様、と声に出して伝える。
寝る時は、みんな大好きだよ〜、ゆりちゃんをよろしくね! また明日ね、と言って2階の電気を消してから1階に降りる。

動物にはもちろんのこと、植物にも、道具や機械や家具にも、言葉は通じると思っている。
なぜなら、言葉はエネルギーだから。
波動として、伝わるに決まっている。

本(物語)もまた、エネルギーだ。
私は、物語というものを通じて、エネルギーを伝えている。

昨夜はかなり、雪が積もった。
なので、今日は一日、誰にも会わず、山小屋にこもって本を読む。
午後の温泉もやめて、一日中雪景色に見惚れていた。
めでたく、ノーガソリンデーとなる。

山、里、山と移動したヒヤシンスの球根が、昨日あたりから咲き始め、そこだけ春になった。
根っこも含めて、なんと美しいのだろう。