メイ・サートン
雨に閉じ込められたので、メイ・サートンの『夢見つつ深く植えよ』を読む。
彼女の作品を読むのは、『独り居の日記』に続いて2冊目。
書いた順番としては、『夢見つつ深く植えよ』の方が先とのこと。
雪や雨で外に出られず山小屋にこもって文字を追っていると、言葉が体の細胞に沁みてくるようだ。
至福の時間を味わった。
それにしても、今の私の森暮らしは、半世紀ほど前のサートンの独居生活を再現しているようで驚いてしまう。
考え方、人付き合いのあり方、自然に対しての驚き方、書くことへの思い、なんだか怖いくらいに似ている。
これほどまでに親近感を覚える作家に出会ったのは、初めて。
「体験は私の燃料だ。私はそれを燃やしながら生きてゆくだろう。生涯の終わりに、燃やされなかった一本の薪も、作品に使われなかったわずかな体験も残ることのないように。」
この文章なんて、もう完全に、私が日々感じていることの生き写しというか、そのまんまだ。
私は、こんなに的確な言葉で表現することはできないけど。
読んでいて、ゾクゾクする。
『独り居の日記』は大雪の日に、『夢見つつ深く植えよ』は雨の日に出会った。
大親友と遭遇したような心境だ。
彼女も、片田舎に引っ越したことで庭仕事に没頭する。
その気持ちが、痛いほどよくわかる。
私は、自分の好きにできる土地を持つことは、とても価値のあることだと思っている。
ドイツ人にはクラインガルテン(直訳すると、小さな庭)があるし、ロシア人にはダーチャがある。
自分の家とは別の、庭。
そこで、週末を過ごしたり、夏の時間を過ごしたり。
それがあるかないかで、人生の歓びは大きく違ってくる。
東京の新築マンションの平均価格が一億円を超えているとか。
驚いてしまう。
ただ地道にコツコツ働いていては、買うことのできない値段だ。
土地の値段が大きく反映されているのだろうが、大体、土地に値段があること自体、私はあまりよくわからない。
でも、大都会で土地を所有するのは難しくても、地方だったら、もっとずっと安い値段で土地を得ることが可能だ。
何に価値を置くか、何をもって人生の歓びとするかは人それぞれだけど、選択肢のひとつとして、サートンや私のように、片田舎に土地を所有し、その場所で好きに戯れるというのはアリだと思う。
今は、リモートでだいぶ働き方も変わってきている。
妻は都会でお金を稼いで週末だけ田舎に戻り、その間に夫は田舎で子育てをする、とか、そういうことも可能な時代になってきた。
先日、取材を終えて山小屋に戻る際、途中の駅まで担当編集者を車で送るという任務があった。
電車の時間を調べると、うーん、ギリギリ間に合うか、もしくはギリギリ間に合わないか、どちらかというかなり際どいタイミング。
その電車を逃すと、次は一時間後になってしまう。
安全運転を心がけつつ、出せるところではスピードを出して駅に向かった。
駅に着いたのが、ちょうど電車の発車と同じ時刻。
でも、ホームにはまだ電車の姿がない。
「とにかく最後まで諦めずに走ってください!」と声をかけ、送り出した。
結果、間に合ったという。
途中で諦めていたら、そこで可能性はゼロになる。
でも最後まで諦めなければ、決して可能性はゼロにはならない。
いくばくかでも、可能性は残る。
その違いは、かなり大きいんじゃないかと思った。
だから、二拠点生活をしたい、とか、田舎に暮らしたい、と思ってはいるけど実行できずにいる人は、やってみたらいいと思うのだ。
それでダメだったら、また軌道修正すればいいのだし。
人生は、決断と実行の繰り返しで、決断だけしても実行しなければ意味がない。
人生は短い。
人生のおしまいに、やらなかったことを悔やむより、やったことを悔やんだ方がまだいいんじゃないかと思っている。
土地を持つということは、地球の一部を確保することで、地球に対しての責任が生まれる。
好きな時に、好きなだけ、地球に触れることができる。
その恩恵は、私が想像と予測をしていた何倍も、何十倍も大きく、今も膨張し続けている。
自分の選択は、決して間違っていなかったと最近つくづく実感する。
半分まで本を読み終え、温泉へ。
意外と混んでいる。
そっか、雨だからみんな野良仕事ができず、温泉に入りに来たのだ。
外国から来ている、農業実習生たちの姿もある。
帰りに、温泉の売店で桃を見つけた。
初桃だ。
迷わず連れて帰り、早速いただく。
美味。
桃の顔を見ると、夏の到来を感じる。