ペンギンと暮らす

新聞記者

2019.07.16 Tue

朝起きて、お茶を飲みながら(デジタル版の)新聞を読むのがわたしの日課なのだけど、今朝はまだ更新されていなかった。
それでふと、『新聞記者』のことを思い出して、予告編などをチェックする。
見たい、今すぐ見たい。
まだ、うっすらとした映画の輪郭しか掴めていないけれど、今こそ、多くの人がこの映画を見て、真剣に考える時だと思った。
自分なりに真剣に真剣に考えて、そして選挙に行ってほしい。

わたしは先週、日本大使館に行って投票を済ませてきた。
「在外選挙人証」というものを発行してもらえば、外国にいても、簡単に投票できる。
発行してもらうのだって、そんなに大変な手続きではない。
でも、それすらもしていない人が多いことに、わたしは正直、驚いてしまう。
だって、選挙に参加しないということは、自分の生活を、未来を、人生を、誰かに丸投げするということに等しい。
そんなに危険なことったら、ない。

以前も書いたかもしれないけれど、ドイツと日本で、ものすごく大きな違いがあるかというと、そうでもない。
確かに環境や人権に対する意識はドイツ人の方が高いと感じるけれど、ドイツにだってまだまだプラスチック製品はあるし、いろいろ問題は抱えている。
ドイツでは犬や猫の殺処分がゼロで、飼い主から手放された動物たちはティアハイムという動物保護施設で新たな飼い主を待ったり、たとえ新しい飼い主に出会えなくても、そこで、生涯を終えることができる。
それはとても素晴らしいシステムだけど、民間による数多くのティアハイムがあることは事実で、つまり、動物を簡単に手放してしまう人がいる、ということ。
そういう人はいるけれど、その受け皿もちゃんとある。
それが、ドイツと日本の違いだ。

ドイツにだって、外国人排斥を訴える極右の人たちはいる。
でも、そうじゃない、それに対抗する勢力もあるから、一方に偏らず、バランスがとれる。
極端な方へ行こうとすると、反対側でぎゅーっとブレーキがかかって、進むべき道を真ん中へと寄せる力がある。
それが、ドイツにはあるけど日本にはないバランス感覚のような気がする。
あるひとつの方向にわーっとドミノ倒しのようにならず、どこかで歯止めがかかる。
それは、きちんと教育で、第二次世界大戦での自分たちの過ちを、徹底的に戒めているから。
そこも、日本との大きな違いだと感じる。
そして、そういう大事なことをすべて決めるのが政治で、それを動かせる最大の方法が選挙だ。
自分たちが政治の主導権を握っているのだ、という意識は、圧倒的にドイツ人の方が高いと思う。

思い返すと、わたしは中学生の頃、新聞記者になりたかった。
具体的には、新聞の、コラムを書く人になりたかった。
だから今でも、新聞記者には大きな尊敬の気持ちがある。

わたしがいつも読んでいる新聞に、大好きな新聞記者の女性がいる。
その人が書いた記事は、どんなに小さくても見つけられる。
新聞記事で心が動かされることはそう多くはないのだけど、たまに、とても深い内容の、温かみのあるいい記事に出会う。
そんな時はたいてい、最後にその人の名前が書いてある。
彼女の書いたすばらしい記事に感動するたび、きちんと手紙を書きたい、自分の作品を読んでもらいたい、と思っているのだけど、いざ書こうとすると、何から書いていいのやらわからず、緊張して、延ばし延ばしになってしまっている。
いつか、お会いする日があるだろうか。
それまで、自分も、背筋を伸ばして生きていたいと思う。

マスコミが萎縮してしまっているという話をよく聞くし、それは肌で感じる。
けれど、流された先にどんな未来が待っているのかを、ひとりひとりが想像しなくてはいけない。
彼女をはじめ、すべての新聞記者が、自由に書ける世の中であってほしい。
権力が、そのような自由を奪っていいはずがない。

『新聞記者』、早く見たい。
こんな気骨のある内容にチャレンジした制作者の方々に、心からの拍手を!
そして、のちのち後悔しないためにも、投票に行きましょうね。