冬至の願い

寒い。
山も寒かったけど、里もまた寒く感じる。
多分、暮らしの中に炎がないからだ。
里の住まいはオール電化で、調理するのもIHだ。
蝋燭を灯さない限り、生身の炎は味わえない。

私の好きな国ラトビアでは、冬至に向けて、丸いものを口にする。
例えば、豆。
丸い形のものは太陽の分身と考えて、それを少しでも体に取り入れようとするのだという。

幼い頃、冬至の日になると祖母が小豆かぼちゃを作って食べさせてくれた。
小豆とかぼちゃを一緒にして炊いたもので、いまだに私は小豆かぼちゃが好きだ。
もしかするとこれも、ラトビアの食文化と同じ意味合いを持つのかもしれない。
小豆もかぼちゃも丸い。
冬は、太陽のありがたみをひしひしと感じる。

里暮らしは里暮らしで、楽しい。
この間、お菓子屋さんまで歩いて行けることに感動した。
肉屋さんにも、魚屋さんにも、パン屋さんにも、日帰り湯にも、コンビニにも、ポストにも、なんなら駅にだって歩いて行けちゃう。
森暮らしでは、ありえない。
どこにも車がないと行けない。
お菓子屋さんまでゆりねを連れて歩いて行って、しかも素晴らしい苺のショートケーキが買えた。

どこへ行くのにも車がないと無理な山と違って、どこにでも歩いて行けるから、里暮らしには時間がたっぷりある。
そのことが嬉しい。
一日が長く感じる。
森で一日があっという間に終わってしまうと感じていたのは、移動に時間がかかるからだと気づいた。

それでも、夜に出歩く習慣はすっかりなくなった。
コロナの前までは夜でも平気で出歩いていた。
ベルリンでは、週末、夜通し地下鉄とか電車が走っていた。
でも今は、必ず夕方の6時までには帰宅して、ゆりねに晩御飯を用意し、家で食事をする。
それが当たり前になった。

今日は、冬至。
一年のうちで、昼の時間がもっとも短い。
でも、明日からは少しずつまた陽が沈む時間が遅くなる。
冬至を、ずっと前からじれったい気持ちで待ち望んでいた。

同じような気持ちで、平和を望んでいる。
ウクライナの人々にも、パレスチナの人々にも、一刻も早く安心して眠れる日が訪れてほしい。
もう、これ以上の暴力はたくさんだ。
なんの罪もない幼い命が犠牲になるのは、理不尽すぎる。
暴力で解決できることなんて、何ひとつないのに。

週末は、ちょっとだけ山小屋へ。
植えたばかりのもみの木さんの様子を見に行ってくる。