選択的夫婦別性
なんでなんですかねぇ。私には、どうしてもよくわからないのですが。
だって、選択的、なんですよ。
何も、全員が全員、別姓にしなくはいけません、という法律ではないのです。
同姓にしたい夫婦は今まで通り同じ姓を名乗ればいいし、別姓にしたい夫婦は別姓も選べますよ、という、選択肢の幅を広げましょう、という提案。
これに反対するってことは、つまり、見ず知らずの隣の家の夫婦に対して、「あなた達も、夫婦で同じ姓を名乗らなくてはいけません」と強要することなのだ。
それは、めちゃくちゃ強引な押し付けだと思うんだけどなぁ。うーん、よくわかりません。
それを言うなら、ですよ。
姓の選択の幅に較べて、下の名前の自由度と言ったら、半端じゃない気がするのだ。
例えば、「月」と書いて、「るな」と読ませる、とか。
「紅葉」と書いて、「めいぷる」とか。
「一心」で「ぴゅあ」。「翔馬」で「ペがさす」。「七音」で「りずむ」。
調べたら、出てくる、出てくる。
もう、〇〇とかけて、△△ととく、みたいな。ほとんど謎かけというか、言葉遊びというか。クイズだ。
それはそれは、想像の翼全開で、自由以外の何でもない。
そのことに対して、私に特別な意見があるわけではなく、それは、それが許されているのだから、親の責任のもと、その子に最大限ふさわしい名前をつけてしかるべき、と思っているのだけど、その、苗字の不自由さと下の名前の自由さのアンバランスが、まるでめちゃくちゃだなぁと感じるのだ。
下の名前の自由さから察するに、大事なのは、漢字の表記ではなく、それをどう読ませるか、だ。
ということはですよ、例えば、「鈴木」と書いて、読みは「サトウ」にする、なんてこともありなんじゃないか、と思えてくる。
そうすれば、結婚して不本意ながらも「鈴木」さんになった人が、いえいえ、これは鈴木と書いて「✖️✖️」(旧姓)と読むんです、と申し出れば、旧姓を引き継げたりしないのだろうか?
いや、多分無理なんだろうけど、下の名前で行われていることは、そういうことだ。
選択的夫婦別姓に反対している方達の意見を見ると、家族の絆や一体感を危うくしてしまう恐れがある、とのこと。
けれど、同じ姓を名乗ることで家族の絆が強まるのなら、そんなに簡単なことはない。
先日、岡山県議会が出した、親子別姓が子どもの心に取り返しのつかない傷を与える、という意見書も、はて? という感じで、よく理解できませんでした。
取り返しのつかない傷、って??
同姓だけといつも夫婦喧嘩している親と一緒に暮らすのと、別姓だけと仲むすまじい親と一緒に暮らすのと、さて、子どもにとってはどっちが幸せなんでしょうか?
日本に健全な個人主義が根付かないのも、きっとこういうところにも原因があるんだろうなぁ、と思ってしまう。
私も去年、姓が変わることでどんなに不便を被るかを思い知った。
名前というのは、その人そのもの、アイデンティティーだから、結婚する、というただそれだけの理由で否応なく夫婦のどちらかが姓を変えなくてはいけない、というのは、かなり強引な気がしてしまう。
姓に限らず、いろんな生き方があって、いいと思うのだ。
私にとっては、夫と別居することも、元夫と同居することも、どこにディスタンスの重点を置くかの違いだけで、中身としては同じようなものだと思っている。
夫婦で別の姓を名乗ったっていいと思うし、同性同士が結婚し、家族になるのだってありだと思う。
たとえ血が繋がっているからといって、あまりに理不尽な要求を突きつけてくる親や兄弟姉妹がいる場合は、それしか解決策がないのであれば、縁を絶つことだっていたしかたない。
要は、個人個人が心と体の健康を保ち、いかに幸せを感じながら自分の人生を全うできるかが全てであって、それを横から他人が、自分の生き方や考え方と違うからという理由で、いちいち口出しするのはどうなんでしょうね?
国がすべきことは、法律で規制することではなく、法律でいろんな人の生き方の自由を保障すること、だと思うんですけどねぇ。