命のしまい方
飛行機の離陸の瞬間が好きだ。
ふわっと機体が持ち上がって、みるみる地面が遠ざかっていく。
眼下の海には柔らかい襞のように波がうねり、その上に船の白い航路が伸びている。
さざなみに反射する光はキラキラ輝いて、地上の現実世界が、どんどん、おもちゃのような、作り物のような、模型のような、そういう物に見えてくる。
機体はすぐに雲を通って、やがて雲を下にして飛ぶようになる。
一昨日は、窓から見えた富士山の姿に感動した。
空から見ると、富士山すら小さく見える。
富士山を見るたびに感じるのは、あの山の頂上に自力で登ったことがあるもんね〜、という小さな誇り。
やっぱり、頑張って登ってよかったと思う。
それでも、空から見れば、日本一高い富士山だって、地球の虫刺されの跡くらいにしか見えない。
機内でずっと「死」について考えていたのは、佐々凉子さんの『エンド・オブ・ライフ』を読んでいたから。
終末期をめぐるノンフィクションで、内容が本当に素晴らしい。
それぞれの人の、それぞれの命のしまい方。
引き出しをそっと元に戻すように命を閉じる人もいれば、出していた引き出しをもっと引いて最後はその引き出しごと床に落とすようにして命を終える人もいる。
自分が引き出しを引いていたこそすら忘れて、開けっ放しのまま旅立ってしまう人だって多い。
いくら自分ではこうしようと思っていても、そうはできないことがほとんどで、命のしまい方というのは、本当に難しい。
でも、イメージトレーニングはできるはずで、こういう本を読んだりしながら、自分だったらどういう命のしまい方をしたいかを常日頃から考え、思い描いておくことは、何かしら効果があるような気がする。
わたしは、この本の中に出てくる佐々さんのおじいさまの命のしまい方が素敵だし、理想的だと感じた。
おじいさまは、さいご、ご自分の大切な人にひとりずつ会いに行き、それからほどなく亡くなったという。
きっと、ご自分の死期がおわかりになっていたのだろう。
人間に本来備わっているはずの動物的な直感を失わずに生きていると、そういうことも可能なのかもしれない。
わたしもそうありたいな、と思う美しいしまい方だった。
もしこの本を先に読んでいたら、『ライオンのおやつ』は書けなかったというか、書かなかったかもしれない。
ちょうど着陸の間際に本を読み終えたのだけど、窓からふと下を見た時の、島の姿と陽の光があまりにきれいで、参ってしまった。
わたしの想像する死というのは、飛行機の離陸みたいなもの。
あれを、ものすごく早くした出来事が起きるんじゃないだろうかと、期待している。
そして、気づかないうちに、また地上に戻ってくるんじゃないか、と。