冬支度 1
つい、手が伸びてしまったのだった。
パン屋さんのカフェでお茶とケーキをいただき、お会計を済ませ、帰ろうと出口に向かった時。
店の一角に設けられた野菜コーナーの笊の中に、それはひっそりと置かれていた。
一袋手にして、反射的にもう一袋手にとって、夢遊病者みたいに再びレジへ。
脳の奥の奥の奥の方で、待て待て、と自分を制するかすかな声が聞こえてはいたけれど、体が本能的に家に連れて帰りたがっていた。
栗のことです。
毎年、買っては後悔する。
後悔するのは、剥くのが大変だから。そして大変な割に、作ってもあまり喜ばれない。
わたし自身は栗が大好きだけど、自分で剥いて自分で食べる栗ご飯は、徒労感の方が圧倒的に大きかったりする。
子どもの頃、栗ご飯は、母が炊いてくれるものと相場が決まっていた。
運動会は必ず栗ご飯で、それが何よりの楽しみだった。
母が亡くなり、初めて自分で栗というものを剥いていたら、泣けてきた。
母が、こんなに大変な思いをして栗を剥き、ご飯にしてくれているとは全く思い至らなかった。
ありがとう、という言葉を伝えるには、もう手遅れだった。
さて、買ったはいいが、どうしたものか。
栗は、二袋で一キロ近くある。
一回は栗ご飯を炊くにしても、まだ有り余る量だ。
とりあえず、鬼皮を剥きやすくするため、熱湯に一晩漬けて考えた。
甘露煮か、渋皮煮か。
わたしは渋皮煮の方が簡単なのかと思っていたのだけど、調べると、どうやら甘露煮の方が楽にできそうである。
鬼皮と渋皮の両方を剥くより、鬼皮だけ剥く方が簡単そうだけどなぁ、と思いつつ、どっちにしろ鬼皮は剥かなくちゃいけないのだからと、鬼皮を剥く作業を始めた。
やってみて、なるほど、とすぐに納得。
確かに、鬼皮だけを剥いて、渋皮だけをきれいに残すのは難しい。
どうしても、「まだら」になってしまう。
栗ご飯にする分を残しておき、ざっと鬼皮を剥いた栗を鍋に入れ、重曹を入れたお湯でコトコト。
アクで、煮汁が真っ黒になる。
水を取り替えようと栗に触れたら、その状態だと渋皮が剥がれやすくなっていることに気づいた。
それで、甘露煮へと舵を切ることに。
機嫌のいい栗は、ぺろっと一気に渋皮が剥ける。
そんなことをちまちまやって栗を無防備な状態にし、もう一度、今度は砂糖を加えて火を入れる。
栗は、ほとほと世話の焼ける相手だ。
まず、強力なイガに入って身を守っている。
イガから取り出すのだって一苦労なのに、更に、鬼皮、渋皮と、頑丈な鎧を纏っている。
しかも、すぐに身が崩れる。
最後まで綺麗な形のまま甘露煮にできるのはほんのわずかで、大抵は途中で割れてしまう。
鬼皮を剥く間、包丁の歯が二回親指に当たり、その都度、血を流した。
それでも、以前よりは、こういう作業が億劫でなくなった気がする。
20代で同じ作業をしたら、絶対に途中で投げ出していたと思う。
30代でも、無理。
でも40代も後半になると、人生でもっともっと面倒なことに対処してきた賜物か、栗の皮剥きくらい、途中で投げ出さずにできるようになる。
最後に塩とブランデーを入れたら、がぜん甘露煮らしくなった。
崩れてしまったケの甘露煮と、綺麗な形のままのハレの甘露煮を分け、それぞれWECKの瓶に入れる。
ケの方は、バニラアイスと食べたり、生クリームに混ぜて食べても美味しそうだなぁ、と舌舐めずりしていたら、ペンギンがやってきたので、味見をお願いした。
冷蔵庫にあった小豆の煮たのと一緒に出したら、大喜びだった。
確かに、おいしい。
でも、おいしすぎる。
ケの方は、ちょこちょこつまみ食いするうち、あっという間になくなるだろうし、ハレの方も、きっとお正月までは跡形もなく消えてしまうだろう。
だから近いうちに、もう一回、栗を買ってしまう、ような。
そして、また後悔する、ような。