山の日

山小屋に、時計はない。
あえて置いていない訳ではなく、ただ、これだ、と思える時計にまだ出会っていないから。
チクタクという音がしなくて、寡黙な、小さな時計を探している。
出会えるまでは、時計なしの生活だ。
時刻を知らせてくれる道具は時計じゃなくても他にあるので、家に時計がなくても別に困ることはない。

朝、目を覚ましたらまだ薄暗かった。
昨日の夜から降り始めた雨は、止んでいる。
時間がわからなかったけれど、起きた。
そこら辺に、まだ夜の名残がふわふわと漂っている。
こっちに来てから、仏様ではなく、森の庭の石に向かってお祈りするようになった。
ただ、ご先祖様への朝ごはんとして、変わらずお線香はあげている。

ゆりねは最近、車の味をしめたらしい。
車に乗ると、どこか楽しい場所に行けると学んだらしく、外に出ると、すぐに車の前で足を止める。
朝の散歩は近くを軽く歩くだけなのに、ゆりねはじっと車の横でストライキをする。
それが最近の困ったこと。
歩こうとしないので、仕方がないからトイレだけさせて早々に山小屋に戻った。
人も犬も、便利なものにはすぐ慣れてしまうから、危険だ。

いつもより早い時間に、仏様とゆりねに朝ごはんをあげ、私は温かいお茶を飲んでから、カメラをぶら下げて再び外へ。
カメラは東京から持ってきていたけれど、一ヶ月以上触れていなかった。
最近になって、ようやくカメラに触る。

朝、ゆりねと散歩しながらいつも写真を撮りたいと思っていた。
でも、いざ撮ってみると、森の美しさというのは全然写真に収まらない。
毎回がんばって撮って、毎回がっかりする。
その連続。
森の美しさは、森の香りと共に自分の体で感じるしかないのかもしれない。

今日は、山の日で祝日だという。
どおりで、昨日から森に人が増えている。

山小屋に表札は出していない代わりに、ボンちゃんを外に置いてみた。
ベルリンのアーティストがガラスで作った、シャボン玉みたいな作品。
ベルリン、東京と旅をして、今は八ヶ岳にいる。
ずっと、このボンちゃんを外に出したいと思っていたのだ。
きっとボンちゃんは、家の中より、外、しかも大自然の中の方が喜ぶはず。
だから、山小屋ができたら定期的に外に出してあげようと思っていた。
木漏れ日を浴びて、苔のベッドに寝かされて、ボンちゃんはものすごく幸せそうだった。

自然が作ったものと、人が作ったもの。
ボンちゃんの存在に気づいた人は、いたのだろうか。
いてもいいし、いなくてもいい。
そこにボンちゃんがいるというだけで、何度も窓から外の様子を見てしまう。
それだけで、私は大満足。

今日は、完璧な夏の一日だ。
山の日という名に、まさにピッタリな青い空。
遠くから、風がこっちに向かってくるのがよくわかる。

午前中は仕事をし、午後は料理と掃除。
その後は、バッハを聴きながら、彼女が送ってくれた作品集をめくる。
バッハは、森の波長とすごく合う。
蛇足だけど、バッハはドイツ語で小川の意味だ。

さっきからゆりねが、散歩に行こうと尻尾を振って誘っている。
朝、ちゃんと歩かないから、中途半端な時間に歩きたくなる。
でも、今日はまだ気温が高くて、散歩するには暑いのだ。
どうせまた車の前でストップして歩かないから、どこかまで車で行って、そこから池を目指して歩こう。
今日こそは、犬に会えますように。