地鎮祭
大安の日が良いとのことで、今日、地鎮祭を行った。
軽い気持ちで八ヶ岳にある中古の集合住宅を見に行ったのが去年の晩秋、それが一転、土地を買うこととなり、車の免許をとりに教習所へ通い、その間設計士さんとどんな建物を建てるのかを打ち合わせし、何度も見積もりを出してもらい、そして今日という日を迎えたのだった。
まさか、自分が「施主」になるとは思っていなかったけど。
人生、何が起こるか本当にわからない。
一年前の今頃だって、一年後、こういう展開になっているとは、全く予想していなかった。
全て、風に背中をそーっと押され、気がついたらこうなっていた、って感じ。
久しぶりに自分の土地を見たけれど、やっぱり、なんかいい気が流れている気がする。
とにかく巨大な石がゴロンゴロン転がっていて、それゆえにお値段が安かった。
他の人にとっては邪魔者扱いの石でも、わたしには宝石のように見えたのだ。
パワースポットとは自分にとって気持ちのいい場所のことだ、とある人が言っていたけれど、それだったら八ヶ岳のその土地は、まさにわたしにとってのパワースポットだ。
パワースポットは、自分で探すもの。
山小屋を建てる過程については、『すてきにハンドメイド』という雑誌に連載中の「寄り道だらけの山小屋日記」に詳しく書いているのであんまりここでは詳しく書かないつもりでいたけど、この山小屋は基本的にわたしの仕事部屋である。
周りには大きくて立派な別荘が建っているけれど、わたしの山小屋は、すごく小さい。
自分ひとりのための空間で、わたしがわたしと居心地よく過ごすためにどうしたらいいか、というのを念頭に設計をお願いした。
イメージとしては、着慣れたカシミアのセーターに身を包まれているような、そんな空間にしたい。
標高が1600メートルの土地だから、特に寒さ対策に重点を置いた。
マンションの場合、構造的な部分までは踏み込めないけれど、一から建物を建てる場合、基礎をどうするか、そこからのスタートだ。
リフォームとかリノベーションとは、わけが違う。
日本の家は、平均すると30年の寿命だという。
これは、ヨーロッパなんかに較べて、かなり短い。
だから、これから建てるわたしの山小屋は、使い捨てのように簡単に建てて簡単に壊すのではなく、頑丈で、長く使える建物にしたいと思っている。
断熱材にしろ、床板にしろ、キッチンのタイルにしろ、薪ストーブにしろ、全てが選択の連続だった。
もちろん、予算という大きな壁もある。
そういう制約の中で、自分にとってベストな物を選ぶというのは、とても難しいと痛感した。
こちらもよっぽどちゃんと勉強をし、理解しないと話についていけない。
そして、どんなにすてきな設計図ができても、それを具現化するのは大工さんだ。
たとえ同じ設計図に基づいて作っても、どんな大工さんが手がけるかで、雲泥の差が生まれる。
幸いなことに、長野には腕のいい大工さんがたくさんいるのだという。
今日は、神棚に供物を捧げ、神主さんにお祓いをしてもらって、祝詞をあげてもらい、工事がつつがなく進行することを祈った。
この世界に在るものは全てが、人間の意識を物質化したものだ、と言うけれど、建築の過程を見ていて、そのことを強く実感した。
何もない場所に、建物が建つって、本当に本当にすごいことだ。
ちなみにわたしは、「持ち家」派だ。
周りの人にも、家を買うのを勧めている。
単純に家賃という形でお金が流れていくのはもったいないし、持ち家だったら、家賃を貯金するイメージで、それを貯めて、自分の財産にすることができる。
何より、家を持っていることの安心感は、大きいような気がする。
そして、寝具にせよ住まいにしせよ、どうせいつか買うのだったら、早い方がいいというのが持論だ。
20代で買っても、30代で買っても、40代で買っても、人生の終わりは一緒なのだから、それだったら早いうちに手にした方が、そのものと長く付き合え、気持ちよく暮らしたり生きたりする時間を長く持つことができる。
特に家は、住宅ローンが安いのだから、人生の早いうちに自分の気にいる住処を作って、なるべく長くそこに住む方がお得な気がする。
あくまでも、わたしの持論だけれど。