ごあいさつ

小説 『ツバキ文具店』

2016.04.17 Sun

君和田さんとはじめてお会いした日のことは、今でも鮮明に覚えている。
以前わたしが所属していたアミューズという事務所の一室に、わたしたちは斜めに向かい合う形で座っていた。
君和田さんのほかに、あと2名、幻冬舎の編集の方がいらした。
当時、わたしは『食堂かたつむり』を出したばかり。だから、もう8年も前のことになる。

君和田さんの第一印象は、とても風通しのいい人。
薄い、カーテンのような感じの方だと思った。
君和田さんが座っていた席の後ろに窓があって、そこからたくさんの光が入っていたからかもしれない。

それから君和田さんとは、仕事で2回、いっしょにモンゴルへ行き、カナダにも行った。
日本各地も、ごいっしょした。
点数としては、これまででもっとも多くの本を作っていただいた編集者だ。
けれど、なかなか「長編小説」という形でのお仕事はごいっしょできずにいた。
よく、8年間も辛抱強く待ってくださったと、感謝している。

今回の物語の舞台は、鎌倉だ。
君和田さんの生まれ育った町であり、私の親友が住んいる町でもある。
3年ほど前、家の一部をリフォームすることになり、仮住まいの場所を探した。
その時、真っ先に思い浮かんだのが鎌倉だった。そしてわたしは数か月間、鎌倉の住民になった。
『ツバキ文具店』には、そのときに直接肌で感じた鎌倉の空気が、色濃く反映されている。

物語の主人公である鳩子(ポッポちゃん)は、文具店を営むかたわら、代書仕事を請け負っている。
依頼人に成り代わって、手紙を書く仕事だ。
手紙を題材にした物語を書きたいという思いは、かなり以前から抱いていた。
その物語が鎌倉の地に根をおろすことで、物語が少しずつ芽吹き、枝葉を広げていった。

この物語を最後まで書くにあたっては、何度も立ち止まっている。
書きはじめから書き終わりに至るまでは、ずいぶんと長く時間がかかった。
書けなくなったら筆を置き(実際にはパソコンで書いているけれど)、あせらず気長に物語が生まれるのをじーっと待った。

できあがった物語を読み返すと、それが全体に、たくさんの「ま」を作っているように感じる。
「ま」とは、人と人の間に流れる「ま」であり、時と時の間にふくらむ「ま」であったりする。
そういう「ま」が、人間関係にも暮らしの中にも必要であるように思う。

今回の物語の立役者は、なんといっても萱谷恵子さんだろう。
萱谷さんは、プロの字書きとして、映画などの美術作品を作るお仕事をされている。
本に収められた手紙は、すべて、萱谷さんおひとりが具現化してくださったもので、どの手紙を見ても、ため息が出る。
連載時より、毎回、すばらしい、本当にすばらしい手紙を書いてくださった。

そして、装画のしゅんしゅんさん。
以前から、わたしはしゅんしゅんさんの絵の大ファンだったのだが、今回、幸運にも、そのしゅんしゅんさんに、いくつか絵を描いていただくことができた。
萱谷さんもしゅんしゅんさんも、「まさにこんな感じ!」というわたしの頭の中のイメージを、それ以上に見事に表現してくださった。
本当に、本当に、ありがとうございます。
おふたりと、このような形でお仕事をごいっしょすることができ、心から幸せです。

今は、メールなどで、簡単に要件を伝えることができる。
けれど手紙は、便箋や封筒を選び、筆記具を選び、相手や自分の住所を書いて、切手を貼って、自らポストに投函し、それが人から人へと手渡しされて、相手の郵便受けまでたどり着く。
メールから較べたら、非効率的であり、不経済だ。
けれど、もし手紙の文化が廃れてしまったら、ちょっと物足りないというか、もったいないというか、寂しいように思う。
手紙は、相手の周りに漂う空気そのものまで、届けてくれる。

そしてメールは、出した瞬間から相手の返事を待つ体勢になる。
けれど手紙の場合は、もっと時間の流れがゆっくりで、「ま」が存在する。
「ま」こそ、私たちの暮らしにゆとりというか、潤いを与えてくれるのではないか、と、本が完成した今、改めてそう感じている。

『食堂かたつむり』でのデビューから、8年が経った。
いまだに物書きとしての暮らしを続けられていることを、奇跡のように感じている。
それはわたしの才能ではなく、寄り添い、励まし、じっと待っていてくださる何人かの編集者がいてくれるからこそ。
本当にわたしは、編集者に恵まれている。

君和田さん、8年間も辛抱強く待ってくださって、本当にどうもありがとうございました。
そして、わたしを身近で支えてくださっている他の編集者のみなさんにも、感謝の気持ちでいっぱいです。

時々、わたしの本を読んでくださっているという読者の方に、直接お会いすることがある。
そのたびに、わたしはびっくりしてしまうのだ。
みなさん、わたしより、よっぽどちゃんと前を向き、しっかりと地に足をつけて生きているな、と感心する。
本を読んでくださる方がいるおかげで、わたしも物語を書くことができている。

『ツバキ文具店』は、わたしから読者のみなさんへの、長い長い手紙です。
物語の中に登場するお店や食べ物は、実際に鎌倉に存在するので、ガイドブックのように、鎌倉という町そのものの魅力を楽しんでいただけたら、うれしいです。
そしてもし、本を読み終わってから、誰かに手紙を書いてみたくなったら、ぜひ自分の字で、相手に気持ちを届けてください。
もちろん、わたしに書いてくださっても、かまいません。
読者の方からいただくお手紙は、わたしの心の糧ですから。

これまで、わたしに手紙を書いてくださった読者の方々に、改めて、心からの感謝を申し上げます。
そういう手紙のおかげで、今回、この物語を書くことができました。

2016年、春。桜散るころに。
小川糸

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