ペンギンと暮らす

ホッリーヤ!

2019.02.15 Fri

週末のマルクトに魚を買いに行った時、ネコヤナギを見つけた。
素朴な風情のおじさんが、いかにも自分の家の庭先で摘んできたかのような雪柳を輪ゴムで束ね、短い方は2ユーロ、長い方は2.5ユーロで売っていた。
2ユーロの方を売ってもらい、家に帰って花びんにいけたら、ぐんと部屋が春めいた。
ふくふくと芽吹く芽は、ふっくらとした毛に包まれて、ゆりねのしっぽを見ているみたいだ。

今日、『ガザに地下鉄が走る日』を読み終える。
10代の頃は、自分が大人になったら、きっと世界は、もっともっと良くなっているのだろう、と思っていた。
でも、現実はもっと良くなるどころか、更に悪くなっている気がする。
こんな未来を期待していたわけではなかったのに。
人間は、ぜんぜん進歩しないどころか、むしろ後退している。

もしこの本を、日本で読んでいたら、もっと違ったかもしれない。
物理的な距離が、パレスチナで起き続けていることを、遠い場所で起きている出来事だと認識してしまったと思う。
だからこの本を、ベルリンで読めて良かった。

どうして人間がそんな暴力的なことをするのか、ということは、いくら疑問を投げかけても答えがあるわけではないから、人間とは時に相手を人とも思わないような暴力で苦しめるものなのだ、という事実として受け止めるしかないと思った。
でなければ、ホロコーストによってあれほど苦しめられたユダヤ人が、今、パレスチナ人に行っている残虐な行為に説明がつかないし、どうしてこれほど善良なドイツ人たちが、かつてホロコーストという残虐な行為に至ったのかも説明がつかない。
「愛」という素晴らしい字を名前につけたわが子に暴力をふるい、死へと追いやる行為をする親にも、説明がつかない。
なぜ? という問いには答えなどなく、ただそこに事実があるだけなんだと思う。

自分たちは特別なのだという優越思想のもと、パレスチナ人の土地をじりじりと奪い、日々ドローンで監視し、逃げられない人々の空の上から爆弾の雨を降らせる。
時には若者の命ではなく、足を狙って彼らから希望を奪う。
水鉄砲での攻撃に対して、一発の爆弾で報復するような、圧倒的な強者による弱い者いじめ。

世界最大の強制収容所とも言われるパレスチナで起きていることも、児童虐待も、構造は同じだと思った。
本当に、ひどい。
そして、助けを求めている人々の声を無視することも、間接的には暴力に加担しているのと同じなのだ。
結愛ちゃんも心愛ちゃんも、必死で助けを求めていたのに、大人がその手を振り払ってしまった。
同じことを、私たちはパレスチナの人たちにもしている。

パレスチナの苺は、とても大きくて美味しいのだという。
けれど、それを外国に輸出するためにはイスラエルの会社を通さねばならず、そこで値段が跳ね上がってしまう。
だから、せっかく甘くて立派な苺を作っても、自分たちで食べるしかない。
かつては、自分たちの海でとれた豊富な魚や、手作りのおいしいパンが食卓に並んでいたというのに、今はその海が生活排水で汚染され、パンも粗悪な白いパンしか口に入らない。
ただ単にパレスチナ人として生まれたというだけで、過酷な人生を強いられている。
もっともひどいのは、人としての尊厳を奪うことであり、希望を奪うことだ。

年末に夢中で読んだ『ベルリンは晴れているか』も、素晴らしい作品だった。
この本も、ベルリンで読めて良かった。

「ホッリーヤ」は、アラブの言葉で、自由を意味するという。
パレスチナの人々も、虐待で命を奪われた子ども達も、そしてホロコーストで強制収容所に連行されたユダヤ人達も、心の底から自由を求めていたのだろうに。
何か具体的な行動はできなくても、とにかく、現実を知り、声に耳を傾けることが大事なのだと思った。

ネコヤナギの花言葉は、「自由」。

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