ペンギンと暮らす

アイラブ山形

2019.10.28 Mon

週末、一泊で山形へ。
東京から福島を経ると、だんだん、窓の向こうに緑が増えてくる。
米沢に向かうあたりの景色は、本当にきれいだ。
山を分け入るようにして、新幹線が進んでいく。

関係が少しはましだった頃、帰省すると、必ず両親が駅の改札まで迎えに来てくれた。
母はいつも、少し背伸びをするような格好で、わたしの到着を待っていた。
だからか、父と母が亡くなってからも、改札のところに近づくと、どうしても、ふたりの面影を探してしまう。
いないって、わかっているのに。
ふと、もしかしたらいるかもしれない、なんてセンチメンタルなことを期待してしまう。

今回は、おばさんに会うため山形に行ったのだ。
母の妹であるおばさんとは、諸事情により、かれこれ、25年くらい、会っていない。
でも、今年になって倒れたという連絡を受け、おばさんが生きているうちに会いたいなぁ、と思った。
おばさんに、ちゃんと感謝の気持ちを伝えたかった。

わたしに、家庭の温もりを教えてくれたのは、おばさんだった。
おばさんには、わたしと同い年の息子(わたしにとっては、いとこ)がいて、わたしはよく、夏休みや冬休み、春休みになると、そっちの家に合流した。
わたしはそこで、「ふつうの家」ってこうなんだ、ということを知った。
自分の家とはあまりに雰囲気が違って衝撃的だった。

おばさんは料理が得意で、いつも食卓にはおいしいものが並んでいた。
特にお正月のおせちの時は、子どものわたしにも、小さな器にちょこちょことコース仕立てで料理を食べさせてくれて、そんなことを経験したことのなかったわたしは、舞い上がりそうだった。

一度だけ、おばさんにビンタをされたことがある。
母の希望により、小学2年生から国立の小学校に転入したわたしは、おばさんに、「◯◯ちゃんと遊ばないの?」と聞かれ、「だってもう学校も違うし、友達じゃないもん」と答えた。
そうしたら、おばさんの手がわたしのほっぺたをぴしゃりと叩いた。
「そんなこと、言っちゃダメでしょ!」と。
この時わたしは、幼いながらに、ふだん母親から受けている暴力とおばさんのそれとは、全然種類が違うことを理解した。
おばさんのビンタは、わたしへの愛情から来るもので、おばさんの手も痛いのだろう、ということがうっすらわかった。

わたしが、母といてもなんとか曲がらずに済んだのは、おばさんのおかげ。
今なら、はっきりとそう断言できる。

おばさんのお見舞いに行くのは日曜日だったので、その前日は、母の死以来会っていない姉と、これまた25年ぶりに再会するはとこ、そしてはとこのお母さんとはとこの娘さん、5人で会食をした。
はとこのおばさんは、わたしが子どもの頃、よく家に遊びに来ていたのだが、水商売をしていたせいで、彼女が家に来ると、急に空気が華やかになったのを覚えている。

そのはとこのおばさんが、25年経ってもやっぱりすごかった!
自分の親戚にこんな人物がいたとは、たまげてしまう。

御歳82歳だというおばさんは、ヒールのある靴を履き、バッチリとお化粧し、赤と黒の服を見事に着こなし、颯爽と登場した。
爪にはネイルがキッラキラ。
ひゃぁぁぁぁぁぁ、わたしより色気がある。

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いまだにアルゼンチンタンゴをしているそうで、いやぁ、参った。
案の定、周りからは「日本のデヴィ夫人」と呼ばれているという。
いくらでも小説のネタに使って、と中学校の先生をしているはとこが言ってくれた。
遠慮なく、ネタに使わせてもらおう。

そして翌日、みんなでおばさんのお見舞いへ。
おばさんは、少し前に退院して、今は自宅でリハビリ中だった。
25年ぶりだ。
でも、ふわっと時間が戻った。
同い年のいとこも、変わらなかった。
おばさんの旦那さんも、穏やかな口調がそのまんまだった。

「うちが実家だと思って、またおいで」
別れ際、おばさんが、言ってくれた。
おばさんも、母には随分苦労させられたと思う。
でも、これからの人生を、どうか、ほがらかに生きてほしいな、と思った。

それから少し時間があったので、昔懐かしい実家の近所を、ぶらぶら歩いた。
視界に山が見えて、ホッとする。
なんとなく、やっと山形と和解できたかもしれない。
いいところだと、心の底から思えるようになった。
45年経って、ようやく山形が好きになれた。